蛟龍飛騰の慨

坂の上の雲 > 秋山真之 > 兵学編 > 蛟龍飛騰の慨



 秋山将軍がひとり我海軍のみならず世界的の兵学家であるという事は必ずしも編者独断の誇言ではない。海軍部内でも真に将軍の功績を知り、公平なる判断を下す人は何人もこの点に対し異議なき所である。今軍事評論家安井滄溟氏が公平なる第三者的立場から大正七年兵学家としての将軍を批評したところを左に録記しよう。そしてわれらの言の必ずしも独断にあらざることを証するの一助としよう。

 君は我が海軍戦術家の権威なりき。その大尉時代に英、米両国に留学駐在してコロム、マハンの秘奥を研鑚せるは勿論、凡ゆる泰西兵学の精妙を極め、併せて東洋の兵学、就中古に於ける我水軍の戦法を体得し、君独特の炯眼(けいがん)と才識とを以てこれを統合融和し、所謂秋山流の戦術を大成せり。君が英、米の留学を了えて帰朝するや、その戦術家たるの天稟と素養とは部内の認識するところとなりて、海軍大学校に兵学の教鞭を執れり。由来我海軍は兵学の研鑽に於いて陸軍に一着を輸し、その高等師兵術の講座の如きも陸軍は早く既に日清戦役に先立つこと十一年なる明治十六年に於いてこれを有せしに拘らず、海軍は日清戦役に至るまでその設けあらざりき。しかしこれ一にはその教材陸軍に比して遙に乏しかりしと、二には戦術の研鑽に特に熱心なる先覚者を有せざりしに由るべし、即ち君が帰朝して我海軍大学校の戦術講座を担任せし以前にありては我海軍部内を通じて戦術家を以て推されるものただ島村速雄、山屋他人の二人ありしのみ。これを陸軍部内の多士済々なりしに比す、素より同日の比にあらざりし也。
 而も君の帰朝と、戦術講座担任とは全然これ情勢を一変せり。従来眠れるが如くなりし我海軍の兵学界は覚醒せり、不完全整頓なりし兵棋演習、図上演習は整然たる基準と法則との下に活発にその妙を顕現するに至れり。当年の君が新進気鋭の資を以てその蘊蓄(うんちく)を傾け、その秘奥を披瀝して後進を遊動啓発せるの偉観は今なお人心に新たなる所なり。殊に日露戦役後再び入りて戦術を講ずるやその深奥博淵なる学理に加うるに戦役中に画策実施したる経験を以てし、活気旺盛、恰も天馬奔空、蛟龍飛騰の慨ありしと伝えられる。
 当時現海軍大学校長佐藤鉄太郎中将、現練習艦隊司令官鈴木貫太郎中将また共に中佐を以て各戦史及び水雷戦術の講座を担当し、君と鼎立して衆の興望を集む。而してその教えを受くるものまた皆歴戦有為の少壮将校なれば、時に教官と論争して相下らず、子弟の間、宛然親朋の如し。我海軍大学校が過去に於いて最も光彩を放ちし時代は、実に君と佐藤君と鈴木君が相鼎立して教鞭を取りし時代にありとは消息通の普く首肯する所なり。
 然れども君が戦術家としての手腕を遺憾なく発揮せしは実に明治三十七八年の戦役にありとせざるべからず。当年に於ける我海軍の大捷は素より東郷長官の重望に俟(ま)つ所多かりしと雖も、もしその帷幄に君なかりせば、果たして斯くの如き良好の戦果を収め得たるや否や頗る疑問なりとせざる可からず。君は実に海戦の初頭よりその終局に至るまで東郷長官と共に終始一貫、海上作戦の大任務を担当せるなりき。この戦役を通じて連合艦隊の参謀は再三更迭せり、而も君は動かざるなり、連合艦隊参謀長は島村速雄氏より加藤友三郎氏に移れり、而も君はなお動かざるなり。斯くの如く君が動かざりし所以のもの、寧ろこれを動かす能はざりし所以のもの、たまたま以て君が東郷長官の帷幄に於ける枢軸なりしことを推知するに足る。

 以上を以て大体世界的兵学化としての秋山将軍の総論的叙述は終わった。以下、秋山軍学とは如何なるものか、その内容に就いて追々研究の筆を進めてみよう。