人生的煩悶

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 が、将軍を大本教の狂信者と認めないまでも、将軍が大本教に近づいたということは将軍の威望を損ずる一種の過失であったとの見解は相当に行われている。しかしその是非は別として、将軍が晩年宗教を前にして人生的煩悶に悩んでいたことは想像以上であったらしい。将軍の長男大氏は将軍のこの宗教的方面の遺志を継いでいる人であるが、流石に親子である、将軍の宗教に対する気持ちや、悩みについて氏が最もよく知っている。氏はその点に関し次のように語っている。

 父は社会人もしくは国家の一員としての仕事は、何といっても軍人として働いた仕事でありましょうが、父自身のための仕事として父が畢世(ひっせい)の力を傾けたものは、この宗教の問題です。宗教問題に対してはもっと何か深いもの − 霊界の何物かを探ろうという考えが深いようでしたが、しかしそうした真理発見のために父の悩みは殊のほか大きかったようです。ですから父の生涯を通じて、そういう問題に無反省の前半生よりも晩年の十年ばかりの間悩み続けて来た間が、父が人間としてむしろ意義ある時代ではなかったかと思います。これは世間の観察と正反対のようですが、あるいは父の気持をハッキリ知っている私、また父から宗教に導かれた私だけが言い得る言葉なのかも知れません。しかし世間が誤解しているように大本教というような一個の宗教にかぶれて毒せられたという事はないはずです。父が宗教に対する態度は結局に於いて批判的でした。世間では何と評そうと、父の宗教に対する思想には一貫した条理がありました。その条理には大した矛盾があるとも思えず、私達父に導かれたままに信じています。

 また故将軍に心交のあった山本英輔大将は同じ主題の下に次の話をした。

 宗教とか心霊とかいった方面に対する興味は、秋山将軍の先天的の性格の中にあったのかもしれない。海軍大学時代にも生徒の中で催眠術の心得のある者があったので将軍も催眠術に興味を持たれ熱心に研究していられたようだった。
 だが将軍は宗教に入り切るには、余りに理性がありすぎる。宗教に没入してしまいたいにしても、最後の一分という所で入りきれずに悩んでいたのではないかと思う。

 右山本大将の宗教と将軍の理性との関係は、先の秋山大氏の将軍の批評的態度の話と一致する。
 この理性、批判性のために宗教に憧れながら宗教に入り得ざる悩み、これこそは将軍にとっては人知れざる悲劇であったのだ。随って将軍の対宗教関係を単に客観的観察をもって、裁断の斧をおろすは聊(いささ)か酷に過ぎる。父の子たる秋山大氏の言は兎も角、山本大将の観察は確かに忠実にして親切なる観方だと思う。
 由来軍人と宗教との関係は必ずしも縁遠いものではない。が、普通の関係は概して小乗的の態度で留まるのを、秋山将軍は飽くまで大乗的に真理探究の域まで進み、遂に軍人を離れて哲学者にまで深入りしたところに自ら問題を生ずるようになったのだろう。


  畢世 : 一生涯