追憶片々

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元衆議院議員 菊池謙二郎

  秋山君と僕とは共立学校で同窓であったかどうか、判然記憶しない。僕が上京して共立学校に入ったのは明治十七年の五月から八月までで、九月に同級から正岡常規君と二人だけ僥倖にも大学予備門に入学することが出来たので、この四ヶ月間に全部の同級生を悉くは知り得なかったのである。
 正岡は同郷の清水則遠という青年と神田猿楽町の板垣方に下宿して居り、僕は牛込若宮町の松村任三氏(当時大学教授)の家に寄寓して居たが、二三学友の下宿を訪問する度に下宿生活が羨ましくなり、翌年の三月頃であったか、遂に松村氏方を去って正岡と同宿することになった。この下宿へは松山の青年学生がよく遊びに来たが、常連ともいうべきものが四五人あって、秋山君もその中の一人であった。それから親しく交わりを重ねるようになった。君は才気もあったが所謂軽薄才子とは全然趣を異にし、率直で無遠慮で能く人を罵倒したものだ。しかし毒気も嫌味もまいので、罵倒された方でもあまり感情を害するようなことはなかった。正岡も僕も常連も時々議論をして相下らなかったものだが、大抵の場合君と清水のみはその仲間に入らなかった。君は負けじ魂を十分に有ってはいたが細々しい理屈を闘わすことは好まなかったようである。
 前に申した通り正岡と僕とは僥倖にも入学できたが、学年試験には二人とも首尾よく落第した。そこでこの年(明治十八年)に入学してきた秋山君と同窓になったのである父親の勧告に従って下宿生活をやめて復た松村氏方に寄寓することになったが、十二月に同氏が独逸に留学することになったので再び下宿せねばならぬことになった。秋山君はその時神保町の何とかという家に同窓の一人と下宿して居られたが、僕が下宿を捜しているのを見て、俺の処へ来てはどうかといわれたので同宿することになった。
 ある日君は一個の菓子箱を携えて帰って来た。それをどうするのかと聞いたら、父親が玉垂が好きだから、いつも歳暮に贈ることにしている。玉垂は栄太桜のが一番良いからあそこへ行って買って来たのだといわれた。僕はその時まで玉垂という菓子は勿論、栄太桜の名も知らなかったので、どんな菓子かと尋ねたら、こんなものだ、と言いながら水引を解いて箱を開けた。僕が「上品だな」というと、「一本食おうか」といって摘み出しそうになったから、「止し給え、数が減ると体裁が悪くなるから」と遮ったが、「ナニ構わない、おやじの処へやるのだから」と言いながら程能く切って二人して食った。君にはマアこんな無頓着な風があった。
 翌年一月半ば頃に同宿の一人が都合あって転宿したので君と僕は駿河台下の齋藤とかいった半素人の下宿屋へ移った。武者窓の付いた薄暗い六畳の一間であった。そのかわり前通りのは人通りが少ないので閑静であったので、学校から帰ると二人で能くボール投げをやった。互いに負けぬ気で力一杯に投げたり、捕れそうもないない投げ方をして対手が落とすと得意がって笑ったものだ。この頃、交友仲間の七人が互いにその性格や特技を批評して七変人評論という小冊子を作って戯れ合った。それにいろいろの番付を付録としたが、ボール投げでは君と僕とが東西の大関に選ばれたように記憶する。尤もその番付は一人二人の手に成ったもので七人が話し合った結果でもなく、また特性や習癖に関する得点も七人の採点を平均したものではないから随分当を失したものもあるが、ボール投げの番付だけはまず公平無難だったと思う。
 「舷々相摩す」の名文で天下を驚倒せしめた秋山君も学生時代は文章は得意の方ではなかった。正岡や僕などよりも作文の点数は劣っていた。君はそれをよほど残念に思って、必死と文章の修練をされたこともあった。当時の文章は一般に漢文調でそれが重んぜられたのであるから、漢学の素養が比較的豊かでなかった彼の作文は漢学の先生にあまり認められなかったようだ。「俺は英語の解釈法で漢文を解釈するのだ」と君が言われたってことがあるが、これは半面に応用の才が現れていると同時に、半面に漢学の素養の乏しかったことを意味するのであった。しかし後になって独創的の文章を以て名を揚げるようになった。その素地は多分この時代に培われたものと思われる
 やはりこの頃の事であるが、君はよく制服の上衣だけを着て、日本の袴をはいて平気で押し歩いたものだ。平気というよりも寧ろ得意の風があったようだ。ある時松山の懇親会に出席したら会合していた人から「痛快々々」と喝采されたといって誇り顔に話されたことがあった。それを早速郷里にいるお父さんの所へ報告された、というような稚気満々愛すべき趣もあった。
 少し気に入らぬと下宿を換えるのが当時の学生には有り勝ちの風習であった。この下宿でも何か二人の気に入らぬことがあったのであろうが、そんな些細なことは忘れたが転宿することに決した。それはその年の四月頃で、こん度は学校に近いパン屋の渡辺という人の二階であった。前の道路は人の往来が劇しいので学校の運動場へ行って相変わらずボール投げをした。ここでは月末にパン代が嵩(かさ)むので困るな位のところで、別段記憶に残っている話もなく、くらしているうちに、秋山君の態度がだんだん変わって来た。ボール投げも不熱心になり、学校の方も欠席勝ちになり、快活な君にも似合わず、おりおり考に沈むようなこともあった。学年試験も追々近寄って来るのに困ったことだと思って、ある日、「近頃君はどうかしているね」と言ったら、「実は学校をやめて兵学校に入ろうかと考えているのだ」という答えに少々驚いて、「それは大いに考慮すべきことじゃないか、兵学校なら去年でも入れたはずだ、何も今更転学するには及ばんだろう」といったら、「僕も先頃からその点に就いて迷ったのだが、僕の性格はどうも学者向きではない軍人向きだと思うからいよいよ決心したのだ」と言われた。そして間もなく兵学校に入学を許可されたので二人は袂を分かつことになった。
 明治三十五年、上海の東和ホテルで久方振りに邂逅したが早卒の際でゆっくり昔語りもせずに別れた。そしてこれが永久の別れとなったのである。(昭和七年六月)

 邂逅 : 思いがけなく会うこと