巴里の密電

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 更に欧州視察中の逸話二三をひろってみる。
 将軍が欧州を一巡して巴里に滞在している時のことであった。将軍は同国の或る軍器工場を訪い承諾を得て工場内を参観した。その時ふと工場内の一隅に将軍の目に留まったものがある。何かというと、それは荷造りされた兵器で、発送の宛先は「ルーマニア国」とあった。
 それを見ると、将軍は随行の陸軍将校に囁いて、
「ルーマニア行きとあるが、この荷物本当にルーマニアに行くのか」
と聞いた。陸軍将校は同工場内の事情に通じているはずの人物だったが、将軍の質問には答えられなかった。
「さあ、何でしょう、知りませんが・・・」
この答えを聞くと、将軍はひどく不機嫌な顔で、将校を叱責した。
 将軍は工場を出ると、随行員を呼んで一通の暗号電報を渡し、本国政府に向けて打電するように命じた。随行員が読むと、それは「ルーマニア国は近く連合国側に荷担して参戦するものと認む」という電文であった。
 随行員は驚いた。ルーマニアの参戦!それは寝耳に水であったからである。何を根拠にそんな重大なことを将軍が突き止め得たのかそれからして先ず疑問である。随行員は事重大と見て、件の暗号電報を打電する前、日本大使館に行って我が駐仏大使に電報を見せた。大使は電報を読んで吃驚した。
「これは若しや秋山少将頭が変になっているのではないか?」
そういう疑問から、わざわざ将軍がパリへ来るまでに巡歴したイギリスに向け将軍の日常行為に就き照会の電報を打ったところ、駐英大使から折り返し将軍滞英中別条無かったとの返電があった。それで多少危ぶみながらも、兎に角将軍の意志だから命令のまま暗号電報は発せられたが、果然それから一週間経つか経たぬに将軍の密電通りルーマニアの宣戦布告となったのである。
 将軍がルーマニア参戦を直感したのは、いうまでもなく軍器工場の同国宛の発送の兵器であった。フランスは今戦争真っ最中で兵器製造に対しては猫の手をも借りたい所である。その忙しい最中に何の余裕があってルーマニアへ兵器を売ったりしていられるものぞ、それはルーマニアが連合国に荷担して干戈を執る場合以外には考えられない事だ。そうした推理からこの重大なる判断を下したのであった。
 将軍の無造作な態度はパリ滞在中といえども相変わらずであった。社交の席でフランス婦人と対談するにも、いつもの癖で、その前で平気で靴下を脱ぎ、脱いだ靴下で足の指を拭き拭き話す。相手の婦人が顰蹙(ひんしゅく)していても平気であった。
 その当時フランスでは、懐中時計の鎖を黄金と白金とで交互に繋いだものが専ら流行し、苟も紳士と名のつく程のものは競ってそれを用いていた。
 然るに秋山将軍は相変わらずの古ぼけた銀鎖で、おまけに時計も銀側と来ているので、日本にもさるものありと知られた秋山将軍程の人が、あの不体裁はといってフランス人が物笑いにするというので大使館館員などが気を揉んで、将軍にそれだけは止してくれといって執拗に迫ったものである。
 が、将軍はいつもの流で黙って聞いているだけで、一向取り替える気色も見えない。仕方がないので大使館の連中も諦めていると、ある日散歩に行ってヒョッコリ帰って来た将軍の胸元を見ると、例の流行の金鎖をつけている上に、時計まで燦爛(さんらん)たる金時計に変わっているではないか。これで大使館員もホッとして、われらが忠告を容れて、流行品を買ってきた将軍の気持ちに対して心ひそかに感謝し、且つ満足した。
 ところが豈(あに)図らんやである。
 それから二三日過ぎたある日、将軍は大使館のある補佐官を連れて散歩に出たが、その途上で将軍は補佐官に言った。
「何うだ君、君も僕のように新式の時計と鎖を買わないか。非常に安いぞ。実は吾輩、皆が余り五月蠅くいうんで、夜店で一つ買ったんだが、君も是非買い給えよ」
その夜店物の時計というのは言うまでもなく鍍金(メッキ)ものであったのだ。


 燦爛 : 光り輝くさま
 豈図らんや : 全く思いがけないことが起こったという気持ちを表す