秋山将軍欧米視察旅行記

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 本編は山梨大将が大正五年、秋山将軍の欧米視察に行かれた時、随行したときの記憶を辿り、特に本会に寄せられたものである。

※山梨勝之進(1877〜1967):海軍兵学校25期生。海軍大将。海軍省人事局長、海軍次官などを歴任し、軍縮会議の締結に奔走。そのため条約反対派から反感を買い、予備役編入となる。予備役編入後は学習院長を拝命。戦後の海上自衛隊創設時には海上自衛隊幹部学校に於いて戦史学の特別講師を務めた。


概要

 故秋山中将(当時少将)が大正五年三月二十一日、衆人歓呼の温かなる送別の声に送られ東京駅を出て世界を一周して、母国に帰られたのは同年十一月初旬であって、この間約八ヶ月に及んだ。
 その順路の概要を述べんに、先ず朝鮮京城に立ち寄られ、時の総督寺内大将に会われ、種々懇談せらるる処があった。次いで奉天、ハルピンを経てペトログラード(今日のレーニングラード)、モスコー、ツーラー方面に向かわれた。滞露は約二週間で、フィンランド、スウェーデン、ノルウェーに出られ、ベルゲンより北海を渡り英国に到着された。
 彼のジュットランド大海戦中はロンドンに滞在されたが、海戦後約一週間を経た時、英国大艦隊の根拠地たるスカバフロウに至りゼリコー提督を訪問せられた。続いて、仏蘭西、伊太利、瑞西等各国の巡視を遂げられ、再び英国に還られ、九月上旬リバプールより米国紐育に渡り、華府、市俄古等を経てシアトルより横浜に帰還せられた。

 仏蘭西:フランス
 伊太利:イタリア
 瑞西:スイス
 紐育:ニューヨーク
 華府:ワシントン
 市俄古:シカゴ


※ジュットランド大海戦:ユトランド沖海戦ともいう。第一次世界大戦最大の海戦で、同大戦中唯一の主力艦隊同士による決戦でもあった。


露西亜方面

 露国では本野大使がよく当時の露西亜の状況を話された。当時露国は西方国境で独逸と塹壕戦で対峙中であり、表面は朝野を挙げて独逸に当たらんと腐心している如く見えた。その後勃発した革命騒動の如きも左様な不安の空気は若干在ると言うた人もあったけれども、あれ丈大きなものになろうとは明確に将来を予見したものは無かったので、当時大使の語らるる所は主に下の如き注意の事であった。即ち、日本海海戦に於いて露西亜の上流の子弟が大分戦死をしているので、上流社会の人のこれに対する感情は中々深刻なものあり、少し位の日露国交では上流社会を背景とする露国海軍は親善に向かい難いものがあり、海相グリゴロウィッチの如きは、日露戦役中旅順軍港工廠長の職にあった人であるが、当方で招待しても大使館に来た事は無かった程であった。然るに秋山将軍の今回の露西亜訪問と前後して、姉川、宗谷、相模等を露西亜に還し、なおそれ以外色々な弾薬兵器類を譲り渡したという事の為に露国海軍の日本に対する感情も目立って善くなったという時で、従って将軍に対する接待、案内等も何のわだかまりも無く心底を打ち開け親切に努めた。当時露国の大本営はモギリヨフというスモレンスクの西南方に在る位置小地方市街に在り、皇帝ニコラス二世陛下も駐輦(ちゅうれん)せられ、列国の観戦武官も数多滞在していた。皇帝は秋山将軍に対し陪食を賜ること数回、英語で親しく時局に対し会談をなされた事もあった。モスコーではナポレオン戦史に著名なスパロウヒルに至り、将軍付近を低徊し、感慨に耽らるる事暫しであった。モスコーの南方に在るツーラは往事ペトロ大帝が親ら小銃の製法を和蘭より学び伝えてその製造を創めし以来、今日まで継続せらる工廠の所在地である。将軍同工廠に行かれし時、廠内に日本より来たばかりの平気製造用銅のブリクエットが山の様に積み重ねてあるのを指し示された事は殊に印象深きことであった。


 駐輦 : 天子が行幸の途中、一時的にその土地に滞在すること。


 将軍は次いで露国に於ける戦線視察のため、ブスコフを経てリガ(今日のラトビアの首都)に行かれた。ブスコフでは、クロパトキン大将が軍司令官として居られた。同将軍の所では日露戦争の追懐談で話がはずんだ。当時クロパトキン将軍は老境に入られ、日露戦役当時の如き溌溂(はつらつ)たる風貌は無かったが、なお伏波将軍顧眄(こべん)の風あり、同将軍感想として述べらるるには日露戦役当時と今時の戦争とを比較するに当時は随分と苦戦もしたが、立派な武士と軍をするので、対手は統制、任侠の美風あり、これに対する自分の軍も士気奮い何となくさっぱりした所があったが、今日は凡ゆる点に於いて面倒不愉快なことがあり、昔の如く行かぬとの事であった。リガ南方の戦線では秋山将軍は独逸の東部戦線の塹壕と僅かに二百米位の至近距離まで行かれて視察された。そこでは独逸兵のヘルメットや銃剣がありあり見える状況であった。時に案内の露国将校は将軍の態度を評し、流石は名将だ、危険に暴露し沈着冷静、従容迫らず、天晴名将軍かなと感歎措く能はざるものがあった。次はその当時に於ける一挿話である。


 伏波将軍 : 古代中国の将軍位の一つ
 顧眄 : 振り返って見ること


 リガ戦線後方凡そ一里許りの処に日中休息中の多数の兵士を見たが、彼らは広々たる野外に於いて付近の婦人と実に愉快そうに手を握り合い、音楽に伴われ舞踏に興じて居た。その様たるや、全く素朴、和気藹々当時戦線で苦しい戦を続けて居る直ぐ背後の光景とは思われない位だった。また滞露中、特に面白いと思われる話柄はクロンスタット軍港訪問である。四月七日頃と思うが、殆ど海上二十浬(かいり)厚い氷に覆われて居り、一行は海上を馬橇(そり)で同軍港に向かった。同軍港の司令長官は日露戦役当時バーヤン艦長として我駆逐隊の間に好敵手として知られたウィーレン大将その人であった。同長官は夫人及び令嬢とともに極めて慇懃なる態度にて一行をお茶に招ぜられ、色々と戦況などの御話あり、また我々の軍港視察に対して如何なる希望も容れ案内するという打ち解け方で実に気持ちがよかった。同軍港で特に気づいた事は、同地は一年の対部分氷に閉じ込められている関係でもあろうか、完備した文庫があって海軍に関係した凡ゆる書籍が蒐められ、またそれを熱心に読む人が多いようであった。帰する所、、斯くの如きは同地の風土が海軍軍人の間に文献に対し研究するという趣味を醸成したのではあるまいかと感じた次第であった。なお今一つ面白い事は、一体当時露西亜ではお寺(チャーチ)の建設に力を入れ、その善美を競うて誇を感ずる風があった様であるが、同地でもその例に洩れず、案内の士官は水交社員のみの醵金(きょきん)で出来たという礼拝堂の建築が大の自慢で、特にその石材が遠くカウカサスから運搬された立派な物であることを力説したのには、将軍は尠(すくな)からず意外で興味を感じられた。露西亜滞在中将軍一行の行動を直接心配して貰った当時の大使館付武官は鈴木乙免中佐で、なお鳥巣玉樹中佐、米内光政少佐も終始随行された。


※鈴木乙免 : 海軍兵学校26期卒業。水野広徳、清川純一、野村吉三郎、山本信次郎と同期。最終階級は海軍大佐。
※鳥巣玉樹 : 海軍兵学校25期卒業。最終階級は海軍中将。軍令部参謀、海大教官、伏見宮家別当などを務める。同期の山梨勝之進とは親友であり、鳥巣が亡くなった時は山梨がその葬儀委員長を務めた。
※米内光政 : 海軍兵学校29期卒業。軍令部参謀、連合艦隊司令長官、海軍大臣などを歴任。昭和15年に首相に就任するが、三国同盟に反対したため陸軍の反発にあい総辞職。その後、最後の海軍大臣として太平洋戦争の終結と戦後処理に奔走し、日本海軍の最後を見届けた。



クロパトキンと真之

 山梨は「小柳資料」でもこの欧州視察について詳しく語り残した。その中で、クロパトキンと真之との会話内容については次のように証言している。
『会談を申し込んだところ心よく承知して呉れ、案内の石坂砲兵大佐が通訳をした。当時のクロパトキンは頬が落ち、肉は痩せて皮膚はたるんで気勢があがらず昔の面影はなかった。彼は挨拶して「いろいろ連合国に御世話になっている。よく見ていってくれ。日露戦争ではあなたがたサムライと戦った。いまはドイツの盗賊と戦っている。実に不愉快だ。然しどうあってもこの戦は負けられぬ」
 秋山将軍はこれに対して「自分は戦争運のよい男だ。自分の行ったところは必ず勝った。あなたも成功されるに違いない」と励まされた。しかし、その後の戦ではクロパトキンは余り名声を発揮しなかったようである。』


英国方面

 露京を辞し北方瑞典を経、諾威のベルゲンより英国に向かい北海を渡られた。当時恰も大海戦の直前であったにも拘らず、海上にては両国艦隊の艦船にも遭わず、無事ニューカススルに着き直ちにロンドンに入られた。
 滞英中に於いては同国現皇帝陛下よりバッキンガム宮殿にて秋山将軍に拝謁仰せ付けられ、種々御下問もあり、将軍は種々奉答される所があった。それから英海軍の主なる大官及びバルフォア外相と応酬交驩(こうかん)せられ、またその間諸種の御用談があた様に覚えている。また将軍は我が珍田大使とも屡々懇談さるる所があった。ジュットランド海戦の一週間後、将軍は英国艦隊の根拠地たるスカパフローを訪はるることとなり、船越大使館付武官も同行せられ、蘇格蘭北岸サルソウより英国駆逐艦にて同地に至り旗艦アイオンジュークに於いてゼリコー大将を訪問せられた。当時警戒厳重なる湾口防御の内方には大海戦から帰った許りの幾多の艨艟(もうどう)が警戒碇泊をなして居た。この緊張せる情景の裏に於いてゼリコー大将は特に秋山将軍に対しアイオンジューク艦上に於いて懇切丁重なる午餐を供せられた。在港せる英国諸将官も多数列席せられ、種々面白き話があった。時に秋山将軍立って杯を挙げ英国艦隊の勝利を祝しその成功に対し喜びの言葉を述べられた。ゼリコー大将はこれに対し謙虚なる口調にて、慇懃に答えるる様、「我々は日露戦争中日本の名参謀として東郷提督の幕下に令名極めて高かった秋山将軍を迎うるを無上の光栄と存じ居るに、更に同将軍その人より唯今の過分なお褒めの言葉を頂戴しては寔(まこと)に痛み入った次第である。我々は東郷提督から日本艦隊に依って実現せられたComplete Victoryという無常の教訓を示されて居る、その意味よりいえば、最近の我勝利は相距る事遠いので、我々は遠からず再び戦いのこの理想とする境域に達せんことを熱心に期待するものである」と斯かる意味の歓迎の詞があった。


 瑞典 : スウェーデン
 交驩 : =交歓
 珍田大使 : 珍田捨巳。第一次世界大戦後の講和会議ではアメリカのウィルソン大統領と激論を交わし(「人種平等条項」を入れるように強く主張し一歩も引かなかった)、ウィルソンやイギリスのロイド・ジョージ首相から「ファイター」と称えられたという。
 船越大使館付武官 : 舟越楫四郎。海軍兵学校16期卒業。最終階級は海軍中将。連合艦隊参謀長第2遣外艦隊司令官、将官会議議員などを歴任。退役後2年ほど三菱石油社長を勤めた。
 蘇格蘭 : スコットランド
 艨艟 : 軍艦


 一行は同根拠地にて英艦隊に一泊の上、翌日の幸便第二戦闘艦隊に便乗し出港、クロマーチに警戒航行した。クロマーチに上陸数日後、ロイサスに於いて巡洋艦戦隊旗艦インフレキシブル号にペケナム中将を訪問せられた。同中将は人も知る如く日露戦争中我軍艦朝日に乗り観戦をされ、殊に我帝国海軍軍人の士気に対し憧憬(じょうけい)措く能はざる称賛の心を以前より持って居られる人である。従って、秋山将軍に対する歓待の如きも懇切にして真情を籠めたもので、一同寔(まこと)に感激した。例に依り秋山将軍戦捷(せんしょう)を祝する旨の挨拶を述べられたが、ペケナム中将はこれに答うるに自分の最近の戦捷には殆ど触るることなく、直にその幕僚に対し下のような追憶談を以て教訓的訓示をなし答辞となされた。即ち、曰く、
「自分が朝日に乗艦中、日本艦隊は不幸にも初瀬、八島の両艦を失い、全艦隊の士気は自然と沮喪(そそう)に向かわざるを得ざる形勢に陥ったかに見えた。その当時一日、東郷提督は自分が乗艦し居たりし朝日に巡視に来られる事となった。自分はその当時提督がこの形勢に於いて如何なる態度如何なる顔付をして来られるかに就き多大のインテレストを感ぜずには居られなかった。然るに提督の御様子を見るに、ニコニコ微笑さえ浮かべて来られ、寔に言葉少なく艦上を巡視せられ、極めて気持ち良さそうに静かに帰還せられた。この様子を見た艦長以下艦員全部は二隻の大損害を受けしことを忘れたかの如く士気昂り雲霧を排して青天白日を見る様に生還った心地した。将なるものの心掛けにつき吾人は実に無上の教訓を得たのである」
と。当時東郷元帥の幕僚たりし秋山将軍の前にて、彼国艦隊幕僚に対するこの訓示を聞きつつ、饗応に与りし時は、寔にいい知れぬ感慨に打たれざるを得なかった。


 憧憬 : あこがれ
 戦捷 : =戦勝
 沮喪 : 気力がくじけて元気がなくなること


仏国方面

 仏蘭西では滞在期間が比較的短く、ベルダン等重要なる陸戦戦場は見ることが出来なかった。それでも、二三見られた所はあった。大統領ボアンカレ氏にも会われ、また外相ブリアン氏等にも会見され、パリの北東約二五哩にある小市街シャンテーエの仏蘭西大本営にジョッフル元帥を訪問された。吾々は大本営というから通信などは輻湊し、武官の往来等雑踏を極めて居るならんと想像して行ったのに、豈計らんや、行って見れば、普通の海軍の官邸位の二つの建物に、元帥と幕僚と居られ、その静粛にして往来の尠いのには実に意想外に感じ一驚を喫した。室内には戦線の極めて大規模の地図が掲げてあり、それに向い元帥は秋山将軍に種々説明され、将軍よりも元帥に対し色々御話があった。一行はこの場の模様を見、成る程全戦局を指揮する最高司令部は斯くの如く静粛なる別天地に孤在するということも非常に意義あるものかとの感想に一等打たれた。
 また将軍はフランダルスの戦場も見らるる機会があったので、カレーに至りダンカークカラニューボール付近の最左翼の戦場を視察された。約十五分間許り、堅固なる掩蓋に防御せられたる塹壕の中を海岸に沿って仏軍司令官に案内され、多大の興味を感ぜられた様であった。
 仏蘭西より伊太利に行かるる途中、リオンに泊まられ負傷兵、授産学校を見られた。手の片方無きもの、足の片方無いもの、これ等各種の負傷兵を集め、傷状、以前の職業、その他萬般を考慮し適切なる職業教育を授け居るもので、有益にしてかつ効果の著しいものとして将軍はこれを観られた。
 仏蘭西旅行中、関係深かった当時の仏国大使は松井慶四郎氏で、大使館付武官松村海軍大佐のお世話になりしこと多大であった。


ジョッフル : フランス陸軍の最高司令官。緒戦でドイツの猛攻を防いだが、ヴェルダンの戦いで損害を受けた後に退任した。
松井慶四郎 : 外務省入省後、各国公使や外務次官、清浦内閣の外務大臣などを歴任。パリ講和会議では全権となる。
松村海軍大佐 : 松村菊勇。最終階級は中将。兵学校23期卒。海大では山梨と同期。日露戦争には笠置砲術長として参戦。


伊太利方面

 伊太利に於いては羅馬を経て墺太利と当時対戦中であらせられた皇帝陛下に謁見のため、東部国境ウデネに行かれ、またカドルナ将軍にも会われた。それよりトリースト、モンファルコーネ付近の戦線を視察され、某伯爵家の宏荘たる私邸に二日間滞在された。両軍の戦線が付近一帯に亘り、非常に多数の繋留気球観測により盛んに重砲の砲戦を交えて居た光景を見ることが出来た。当時将軍が伯爵邸に於いて記念のため日本字で書いて残された文章には、「世界大戦の勃発せる最大遠因は物質偏重の文明の結果に外ならず、これを将来矯正せざればこの大禍を再びすることなしとせず、大いに戒心せざる可からず云々」の句があった。
 ウデネを辞し、なおアルプスの戦線を見られた。その場所はタリアメント河の上流付近のアルプス山で、極めて嶮峻な山嶺の一部に於いてこの地方特有の伊太利獄兵が苦心して絶頂に綱仕掛で、砲を曳き上げ、しかも砲戦中であった。時正に成夏八月で将軍は渇を覚えらるること甚だしく、アルプスの峯の清水を手に掬して飲み、口を鳴らし「オイシイオイシイ」と言われたのは今に覚えている。
 帰途はナポレオン戦史に名高いカンポフォルミオを通られ、ベニスの方に向かわれた。伊太利方面の視察に関しては我が伊集院大使及び大使館付武官山本信次郎中佐の配慮を煩わせしこと多大であった。
 伊太利からシンプソンの隧道を経てベルンに至り、チューリッヒに一両日滞在、シャフハウゼンよりライン河に於いて有名なライン瀑(たき)を見られ、ライン河の左岸を西方に下りバーゼルに至られた。ここでは当時独兵の銃剣を持って立ち居る国境現場まで近寄られたが、彼等が吾々に独逸側に五六歩でも入れば、すぐに捕虜にすると笑い乍(なが)ら話したことなどが記憶に残っている。
 再び踵(きびす)を仏蘭西に返し英国に至り、九月上旬に米国に渡らるることとなった。


 伊太利 : イタリア
 羅馬 : ローマ
 墺太利 : オーストリア



米国方面


 米国に至る大西洋の航海は米西戦争中、米国仮装巡洋艦であったセントポール号でなされたが「リバプール」出帆の時は独逸の潜水艦に対し警戒非常に厳重であった。
 当時の米国は未だ中立国であり、世界大戦に参加せず、参戦論の当否に関し甲論乙駁の時代であった。
 米国に於いては将軍が大尉の時駐在留学せられ、なお米西戦争にも従軍せられたる深き御関係もあり二、三の米国人たる旧友にも会われ、紐育等でも諸種の会合等あり、また視察もせられ特に面白く時間を費やされた。その間には首府ワシントンをも訪問されたが、当時同地には田中代理大使が居られた。米国滞在中記憶によく残っているのは、ロードアイランド州のニューポート市の大使館付武官 野村吉三郎中佐の案内で米国海軍大学校に行かれた事であった。校長ナイト少将は将軍に午餐を供し、懇切に案内されフォゲルグサング中佐の指導する兵棋演習を見せられた。秋山将軍は当地に引退して居られたチャドウィク少将を訪問されたが、その時大学教頭ニブラック大佐が同行した。
 チャドウィク少将は米西戦争中、米国艦隊旗艦ニューヨークの艦長をされ秋山将軍は同に乗艦従軍されたる密接な御関係あり、久方振りの邂逅(かいごう)にて両方より久濶(きゅうかつ)の情を述べられた時は傍らより見た吾々も御互いの御友情の厚きに感心した程であった。その席でチャドウィック少将とニブラック大佐との間にジュットランド海戦の勝敗のことに関し周囲を構わず激論を闘わしたのには頗る同席した吾々にも稗益(ひえき)と興味を与え、忘れ難い思い出となっている。
 その後はシカゴを通り、西に行き、シアトルより、横浜丸に乗り、横浜に上陸、長途の視察旅行を終えられた訳である。


 邂逅 : 偶然会うこと
 久濶 : 長い間会わないこと
 稗益 : 役に立つこと


 この旅行を通じ将軍の行動を概説すれば、不世出な類い希なる鋭敏性を持って軍事上凡ゆる場合の要点を捕捉摘発看取される技量には如何なる場合でも随員一同感歎を禁じ得なかった所であった。殊に極めて短時間に一瞥された複雑なる現象並びに図書等も克く記憶せられて更に後で御自分でスケッチされるのには一驚を喫した事屡々であった。普通の者は先方で好意を以て見せた品物図書等でも多くは善く覚えて居らぬが、将軍はたとえそれらが相当に複雑極まるものであるのに拘わらず、如何にしてか暗記されて後で明瞭にその輪郭の大要を筆記して見せられたのには恐れ入った。所謂凡人の頭脳で窺う事の出来ない天才的の所があった。なお到る所で内外の多くの人の話すことを将軍は黙って聞いて居られるが、聞かれた事は総て頭の中に蓄積せられ、平常黙々として居らるる際、頭の中で研究を続けて居られる様に見えた。何故かく言うかというに、将軍は時々一気呵成に筆を執られ、驚くべき立派な報告或いは電報を書かれたのである。斯かる時将軍は毛筆をインキ壺に突っ込まれ、本当の一気呵成で草稿無く宛も無尽蔵の源泉から水の流れ出る如く澱み無く次から次と滾々(こんこん)と出て来るので、斯かる事は多くは夜間将軍突然起きて書かるるを常とした。それを後で拝見すると修辞も極めて善く整い、しかも推敲に苦しまれた跡無くして、流麗奔放一種の風韻ある文章が出来上がって、その勢いのあることはまた噴火山から溶岩の噴出するが如く旺にして神秘的にも見えた。しかして将軍の作物を充分検討して見ると内容は前述せる内外の人から平素得られた多数の零細なる諸資料が、極めてよく布置せられ四肢首足脈絡貫通して整然たる体裁をなしているに外ならないのである。将軍の建設的性質は実に神秘的でその文才は魔筆であると思わるる事が多かった。
 将軍この御旅行中は大変健啖にして健康も頗る良好で実に愉快そうに見えた。なお将軍は大きな方面の問題としては政治外交用兵等に着眼せらるるは元よりの事であったが、更に海軍の技術方面の事に対しても普通以上の注意を払われた。例えば掃海の凧(カイト)の如き、捕獲網の構造の如きに対し格段の注意と趣味を以て視察研究を続けて居らるる様に御見受けした。
 本旅行は前代未聞の大戦に際し行われたので、将軍にとり非常に有益にして興味多く愉快なる視察旅行で、かつ帝国海軍に稗益せられた事多大であった様に思われる。