秋山軍学の基調

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 秋山軍学の根本精神は何処にあるか?
 これはなかなか重大問題であって、しかも将軍の軍学を知らんとする者には、先決的に必要な問題である。
 また同じそうした問題でも、観点によって帰結する所も多岐であろうが、将軍の軍学の目標が殺敵にあらずして、屈敵であったことがその重大なる特質の一つであった。凡そ西洋の戦略は殺敵主義であって、敵に対しては単兵隻馬といえども、毫も余すところなく全滅させる底のものである。然るに将軍は、孫子の所謂「戦わずして敵を屈するは善の善である」という主旨に則って、屈敵主義の独創的戦略を編み出し、これをその兵学の基調としていた。
 由来日本は仁義の国、如何に敵国と戦端を開けばとて、必要以上憎悪に駆られて殺戮を事とするは執らざるところである。秋山軍学が現下我が海軍戦略の主流を成すとすれば、この屈敵主義の軍学こそ君子国日本のそれとして誠に相応しいものでなければならない。随って一面からいえば将軍のかかる主義の軍学こそ国民性の現れともいうべく、また将軍個人としては智将勇将であると同時に仁将でもあり、人間としては人道主義者であった将軍の個性の現れであるともいえるのである。
 とはいえ屈敵主義も殺敵主義も勿論比較的の話で、たとえ屈敵主義なりと雖も、徒に宋襄の仁に囚われる事なきはいうまでもない話である。将軍の郷里松山市の実業家井上要氏はかつて次の話をしたことがある。

 ある夜、秋山さんの芝の家に遊びに行ったことがあった。その時上村中将が朝鮮海峡でロシアの浦鹽艦隊と戦い一隻を撃ち沈め水に溺れる露兵を救護したのは盛んに各新聞も大和魂の現れだと褒めたが、なるほどと思うというような話をしたことがある。然るに秋山さんはこれに反対だった。あれは日露戦争の中で最も失敗したものである。戦争の功を全うするは追撃にあり、あの場合は追撃すべきものである。それに追撃もせずに溺れるを救うはいかぬ、あの時はもっと追撃したら浦鹽艦隊を撃滅し得たのに如何にも惜しい事をしたものぢゃと、いかにも残念の様子であった。私もなるほどと思った。

 が、しかしこの問題は大いに議論の分かれるところである。我が国が戦時を通じて精神的にも物質的にも浦鹽艦隊の出没のために如何に悩まされたかは今なお国民の記憶に新たなるところである。もしあの時真に秋山将軍の言の如く溺れている敵兵の救助などは二の次にして機を逸せず、敵艦隊を追撃して行って、一挙これを撃滅していたら、恐らく戦時中を通して浦鹽艦隊にあれほど悩ませられたということはなかったであろう。
 が翻って考えてみると、あの一戦で示した我が艦隊の人道的な武士道精神は世界の賞揚する所となった。それがために本に対する世界の同情は翕然(きゅうぜん)として集まり、ロンドン市場に於ける我が軍事公債の募集が俄然活況を呈したということであった。−もっともこれはあの戦争の責任者であった第二艦隊の幕僚の所説である。
 随って事の是非は史論家に任せるとして、われらのここに言いたい事は、秋山将軍が一面屈敵の大主義を標榜しながら、一方に於いて一見それと反対するようなこの種の言説を吐くのは一見矛盾を感ずるようである。
 が、しかしこれは矛盾でも何でもない。将軍の屈敵主義というのは、それほど硬張った概念的な、融通の利かないものではなかった。仁義を基礎とした屈敵主義でありながら、その仁義にのみは捉われず、どこまでも戦闘の目的を達するため追撃すべきは追撃しようという所、これこそ真の意味に於ける偉大な屈敵主義であろう。矛盾である如くして少しも矛盾ではないのである。
 次に将軍が平常口にしていたことであるが、戦略戦術の要訣は天地人の利を得るにあるという事であった。
 天は時である。如何なる機に於いて敵と合戦するか、如何なる天候のもとに如何なる作戦を執るか、これが即ち天である。
 地は場所である。我は如何なる地点を取り、如何なる地点を敵に与えてはならぬか、これが即ち地である。
 人は人の和である。如何なる統帥の下に如何なる軍を配するのか、如何にして主将の命令を徹底せしむるか、これが即ち人である。
 以上を根本として、秩序正しく微細に亙り考究するのが戦略戦術の主眼であると将軍は説いているのである。
 まだ数え上げれば他にもあろうが、右の二つとも秋山軍学の基調を成すものであったことは確実である。