黒船初めて江戸湾に来る
の図に題す

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 右に掲げたる二葉の図は、今を距《さ》ること五十余年前、米国水師提督ゼームス・ビッドル氏が、軍艦「コロンバス」及び「ヴインセネス」の二隻を率い、初めて江戸湾に来たりし時の景色画にして、目下米国海軍少将ルース氏の蔵せらるる処なり。一日少将不肖をその書斎に引き壁上二面の古額を指して曰く、これはこれ予が少尉候補生たりし時、初めて貴国江戸湾に至りし時の手取画にして、当時乗組員の一人たるジョン・イースレー氏の手写したる処なりと。不肖異境にこの古画を創見し、母国今昔の感に堪えず、少将に当時の実歴談を聴かしむことを乞う。老将為に昔を語って曰く、

 回顧すれば、千八百四十六年(弘化三年)七月二十日の事なりし「コロンバス」及び「ヴインセネス」の両艦より成れる吾《わが》米国極東探検艦隊は、水師提督ビッドルに指揮せられて、喜望峰を廻れる長途航海の末、遠征の極端たる江戸湾に進入することを得たり。固より初度の探検にて、水路も明らかならざれば、測鉛を投下しつつ徐々に湾口に進航せしが、幾《いくばくも》もなく、数隻の小舟両刀を腰にしたる武士を乗せて、海岸より吾艦間近く漕ぎ来たり、これより深く入港すべからざるの意を通ずるものの如し。吾提督は日本人の感情を害せざらむと欲し、その意に従い直ちに投錨の用意を命じ、次第に減帆して船脚を止め、海岸を去ること約三海里の処に投錨せしが、暫時にして以前の如き数多の小舟海岸より吾両艦の周囲に蝟集《いしゅう》し来たり、瞬く間にその数二三百許りともなれり。舟中には例の両刀の武士多数乗り組み居り、或は呼び或は叫び、多少不穏の形跡見えたりしも、別に抵抗するの模様も無かりし。軈《やが》て諸帆を畳み終わりたる後、日本高貴の武士とも思しき人、吾旗艦に上り来たり、提督に面会して至極慇懃に挨拶し、和蘭語を以て先ず両艦の大砲、小銃、弾薬その他一切の武器を陸揚げせんことを請求せり。蓋し、武装せる艦船は日本の海岸に近付く可からざるの主意なりしと察すれども、かくの如きことは為すべきにもあらず、また為す能はざることなれば、提督は鄭重に事情を陳べて、これを拒絶したりし。次で、何故この地に来たり、また何か求むる処ありやの問いに対し、提督は向後《こうご》吾米国と日本との間に好誼《こうぎ》ある親交及び通商を開かんため、遥々この地に来たりたるの意を述べ、且つ薪水野菜等を購買するを許可せられんことを請えり。その後交渉連日に亘ると雖《いえど》も、奈何《いかん》せん、当時吾艦蘭語に長ずる者無く、貴国また英語に通ずる人無きを以て、相互の意思を完通すること能はず、得る処の要領ただ異国の艦船は西方の一港長崎の外、入港するを許さず、また薪水食品の供給足る時は、一日も早く江戸湾を去るべしと云うに過ぎざりし。

 昔を語る老将の談話を聞きて、旧懐考古の情禁ずる能はず、更に当時両艦の停泊せしは今日の何辺なりしや、また当時我が国民の情態を如何に観察されたるやと問いしに、少将の曰く、

 遺憾なる哉、余は不幸にしてその後一回も子《し》が国に至るの機会を得ざりしが故に、当時吾遠征艦隊が江戸湾口どの辺に投錨せしやを想起すること能はず。殊に当時一切上陸を拒絶せられ、且つ吾両艦の間に往来する短艇にすら、四五隻の日本舟随伴して警戒するの有様なりしを以て、毫も探査するに由なかりし。ただ海岸一帯丘陵起伏し、緑蒼たる樹木これを蔽い、遙に富士山のその上に聳立《しゅうりつ》するを見たり。徳川幕府の所在地なる江戸の市街は、停泊の位置より北西に方り、約十五海里の処に在りと聞きしが、高き岬頭(観音崎ならんか)に遮られてこれを望見すること能はざりし。止まること九日間、日々数百の日本人吾艦に来たり、皆艦内の機具を見て奇異の感を為せるものの如く、また無知より起これる無礼もありたれども、概して慇懃温厚なりし。殊に陸上より送り来れる、鶏豚野菜等に代金を払わんとするも、敢えて受けられざりしはやや廉潔に過ぎたるかと思いし。これらは吾一行が、当時貴国に於いて観察し得たる処の一班なり。すでにして、貴方より通商互市は到底許諾し難きが故に、薪水食品等の需要足るときは、なるべく速やかに江戸湾を去らるべしと催促さるるのみならず、吾方に於いても、通語不十分のため到底目的を達する能はざるを認め、遂に成功を後日に譲りて、七月二十九日出帆することとなれり。その日我両艦いよいよ出港と知れ渡るや、数百の日本舟は、舳艫《じくろ》相繋ぎて数十の縦列を形作り、各《おのおの》吾両艦の前部に曳綱を取りて、これを引き出さんとしたることこの図に示すが如し、然し左程の効力も無かりしは笑止千万なりし。やがて我が両艦は順風に帆を展し錨を揚げこの記憶すべき江戸湾を辞して太平洋に出でたり。それより海路一万余里、南米の極端ケープ、ホーンを廻りて、故国に帰りたるはその年の末方なりし。以上述べたる処は実に吾米国艦隊が貴国太平二百余年の長眠を覚破したる発端にして、その後六年即ち一千八百五十二年(嘉永五年)水師提督ペルリ更に軍艦数隻を率い、国書を齎《もたら》して浦賀に至り、交渉年を重ね、終に彼の通商条約を締結し得たるものにて、吾等初度探検が、この後者に資料を与えたるもの少なしとせず。而もこの記念すべき初航遠征が、貴我に左程重要視せられざるは、老生の今なお遺憾とする処なり。想えばこれ五十余年の昔語りにて、往時を追懐すれば、真に夢の如く、当時貴国の状態と、今日日進の現勢とを比較せば、誰か今昔の感なからん。余享年ここに七十有三、見来る人類歴史の変遷数多ある中にも、余が少尉候補生よりこの老将たるまでに、進化したる日本の歩武ほど速大なるものは無く、殊に子が母国の海軍は見る影だに無く、もし強いてこれありと言えば、この図にあるが如き翩々《へんぺん》たる小舟の一群なりし。然るに現時は如何、大艦速艇数を連ね、優に世界海軍国の席次に伍入せるにあらずや。ああ、既往の進歩を推測するときは、また将来の発達をも期して待つべく、而して過去は先進の経営、未来は子等後進の奮勉にあり。例えば親の譲りの千弗《ドル》の遺産を運転して万弗に増産したりとも、なお子たるものの功は、本来無一物より千弗に高めたる親の力に若《し》かざる如く、凡て功業は倍力の比例に準ずるものなれば、子等年少の海士、先進の惨憺たる経営に成れる海軍の遺産を継ぐも、ただこれを保守するのみにて能事了《おわ》れるにあらず、益々遺産を有効に活用して邦家の利益を図り、更に勢力の増進を為し得てこそ、功を先代と同じうすと謂うを得べし。進む世界に際限無く、人事程度のあるべきにあらざれば、今日本の海軍漸くその基礎確定せるが如しと雖も、なお列国海軍の増進に伴い、将来幾倍の増勢を必要と感ずる時節到来せん。子等年少果たして能くこれを為し得るや否や。

 趣味深き老将の至訓、自ら客心を刺激するを覚えしが、去りとて、吾国の歴史上海軍の発達に一時の頓挫ありしも、三百余年前、吾人の祖先はすでに三檣《しょう》ある備砲艦をも有したるものにて、少将の言わるる如き、翩々たる小舟に創《はじま》りしにあらざれども、兎に角、篤実なる教訓、言を返すは不敬と黙し、言わんと欲して言う能はざるものこれを久しうす。少将不肖の意色を察し、莞爾として微笑し、更に話を転じて曰く、

 過去五十年間に於ける、日本海軍の進歩は驚くべきことなれども、また吾人の従事する海軍技術の発達もまた絶大ならずや。爾来木艦は鉄艦と化し、汽船は帆船に代わり、熕砲《こうほう》、水雷、装甲等進歩の階段もまたこれに準ぜり。試みに今日の富士、八島両艦とこの図にある「コロンバス」「ヴインセネス」の二艦とを比較せば、今昔優劣の差隔非常なるものあるを認むべし。斯くの如く機物進歩すれば、随ってこれを活用する技術も進歩せざるべからざれば、ただ徒に旧法を墨守して、新利器を運用せんとするが如き愚を為すべからず。また過去五十年の進歩、すでに斯くの如しとすれば、将来五十年にもまた同一程度を以て進歩すべく、しかもこの進歩や時々刻々の間に起こりつつあるものなれば、将来の歴史を形成すべき年少は、造次顛沛《ぞうじてんはい》これが注意を忽《ゆるがせ》にせざるを要す。予等老骨すでに時勢に遅れたりと雖も、これ余の後れたるに非ずして、全体が進歩したるものなり。それと等しく子等年少も、ただ今日の程度に安んじて、進歩に伴う研究を怠る時は、他日官位は進み、頭髪は白くなるとも、終にはまた年少気鋭の後進に老朽視せらるの時来らん。もしそれ終始時勢に後れざらんと欲せば、人間は到底終生勉磨せざるべからず。

 以上は則ちルース少将が古画に対して、往時を語り、今昔を比較して、不肖に訓戒されたる処にて、その言篤実深切、吾海軍後進をして過去の事情を追想せしむると同時に、また将来の希望を大ならしむるものなるを認む。実に少将の言の如く、皇国の新海軍は、この五十年前外部の刺激に依りて、その萌芽を発生したるものにて、嘉永の初年、幕府創めて一二小艦を購入したるに発端し、日の丸の軍艦旗もこの時に定められたり。爾来内国争乱のためその進歩に消長ありたれども、先達卓見の士相襲《あいつ》いで惨憺たる経営を続け、漸く現時に至りて真正海軍の基礎確定せんとするに至れり。然りと雖も、、更にまた三百年以前の旧事を追想するときは、今世の海士が遺憾とすべきこと少なしとせず。当時我国の祖先はすでに三檣の備砲艦をも有して、優にその時代に於ける他外国艦舶に匹敵するに足るの位置にありしも、徳川幕府の姑息的内地政策と、鎖国太平の偸安《とうあん》惰性は漸次に海業の退歩を来し、これに反して泰西諸国の海軍は、生存競争の結果として長足の進歩を遂げ、降って弘化嘉永の頃には、彼我発達程度の懸隔、実にこの図に示すが如きものと化し去り、強弱優劣最早拮抗する能はざるの姿勢となれり。これを想い彼を思えば、無事太平なる一時の現象は、人生の最大幸福なるかまた最大不幸なるかを判断するに難からざるなり。米将ペルリが僅々五艘の小艦を以て、日本全国を震動せしめたるはこの時なりし。魯将ネベリスコイが隻艦を以て、今の黒龍江沿海州を経略し、吾樺太を覬覦《きゆ》したるもこの頃なりし。彼等は各々唯我君国独尊の国旗を翻して、海外万里に雄飛活歩したる際、吾国民の上下は頓《とみ》に長夜の夢醒めて、陸上の攘夷を喧呼するも、これに応ずるの実力も手段もこれなかりし。もしこの時に当り、吾国の海業が三百年以前の歩武を以て発達し居りたらんには、能く外侮を禦ぎ得たるのみならず、彼の来るを待たずして我より押し掛けしたらむものを、遺憾なりしと謂うべし。これは既往の事歴、今更に憤悔するは愚痴の至極なり。ただ今世の吾人は、父の大に於ける窮困狼狽が、永年の逸楽に耽りたる過去先代の因果応報たるを悔悟すると同時に、更に未来の善果を期して現在の原因を積むに力むべきのみ。今や父の時代に於ける辛苦経営の功現れ、漸く真正海軍の基礎確立し、一陽来復、順逆転環の機運は、将に今後に発動せんとするにあらずや。さなきだにルース少将の言の如く、昔江戸より長崎に至る時日を以て、今東京より倫敦に至り得る進歩適当世に於いては、世界の表面もこれに比例して縮小し、その三分の二以上を占めたる海洋は、艦船構造の進歩に依り、最速最安の大道と化し、また蛮馬に跨りて陸上に齷齪《あくそく》し、後方勤務の欠乏を窮訴する必要も少なく、為めに海上武人の責任は、海上武力の全盛と共に、いよいよ益々その重きを加えるの時節となれり。ここに於いてか、吾々今世の海士は広く目を世界の全面に注ぎ、遠く意を海国の将来に着け、海気を振揮し、海術を練磨し、この一生を海洋に終始するの大覚悟あらざるべからず。かくの如き多望多事の時に当り、もし支那朝鮮の近航に故郷を思うが如き海国人ありとすれば、帝国の光威は、世界は愚か東洋の一隅だに照明する能はざるなり。嗚呼人類の歴史は常に循環せり。過去五十年の昔を写せるこの図は、未来五十年に於いてその位置を代えて描くこと能はざるか。蓋し天は自らを助くる者を助く、月桂冠はその冠下に頭を入るる国民の頭上に栄降するものならむ。

 不肖はこの図に関連して、耳底に残れる亡父の訓話を連想し、吾国の祖先は遠き昔より已に海気の振興を後世に訓戒したることを想起せざるを得ず。不肖幼少の時、亡父しばしば「鬼ヶ島桃太郎」の昔噺を説明し、不肖を訓めて曰く

 桃太郎が日本一の吉備団子を携え、これを与えて犬と猿、雉を従え、遥々海を越えて鬼ヶ島に押渡り、鬼人を退治し、財宝巨万を船に積みて故国に還り、その老父母を喜ばしたる童話は、吾国の人誰しもこれを知らん。この噺の中には深き意味を込めたるものにて、日本国行末の繁昌を願いて、先覚の知者が後世子孫を諷訓《ふうくん》したるものなり。「桃太郎」は即ち「百太郎」にて、百は多数の形容、太郎は日本男児の通称なれば、「百太郎」とは取りも直さず日本多数の男子と云うを意味せり。また「日本一の吉備団子」は就中大切の意義を含めり。その「日本一」とは日本第一に非ずして、「日本一ツ」即ち挙国一致の意、「吉備」は十全、「団子」は円満団結の意ありて、これを一括すれば、挙国一致して充分の和合団結を保つべき大本を示したるものなり。また、犬、猿、雉は禽獣の性能を以て、人間の心力を表示せるものにて、犬は忠実、勇敢、猿は炯智、敏捷、雉は堪忍、慈愛の天性を有し、また犬は地を駛るも木に登る能はず。猿は木に登るも空に飛ぶ能はざれば、犬、猿、雉は各々特有の能あり。人たるものこの六性三能を兼備すれば、如何なる難事に当るも失敗すべきものにあらず。「鬼ヶ島」は海外赤髭の住む処、またその持てる宝物は、単に金銀珠玉にあらずして、有形無形、彼の長所利点と心得て可ならむ。これを要するに、この桃太郎の昔噺は、「日本多数の男子は故国に恋々たらず、海洋を越えて外国に渡り、箇々の名利に拘らず、挙国一致の団結を保ち、天賦の心力たる智、仁、勇を応用して、他外国人の長所利点を取来れ」との意味を含めるものなり。

 この昔噺誰が作りしか知らねども、兎に角、古人はこの如き意味深長の佳話を残して、後世子孫を奨励訓戒したるものの如し。然れども鎖国泰平の世には、この意義を翫味《がんみ》するさえ叶わず、今日の父老これを知るもの甚だ少し。今や明治隆興の御代となり、列国と対峙するに至りたれば、帝国多数の桃太郎はこの昔噺の意義を服膺して、君国に尽力すべき時とはなれり。蓋し桃太郎の孝道は、真正日本流の孝道にして、忠道もまたこの裏に存せり。父母の膝下に終始して二十四孝流の孝道を尽くすが如きは女子の職分、予の汝に望むところにあらず。汝宜しく桃太郎の孝道を踏んで、また一家を省慮する勿れ。云々。
 国の東西を問わず時の古今を論ぜず、長年の実歴に依り、百世を大観したる古老の教訓する処、多くは海にありて、陸にあらず、退守に非ずして進取なるが如し。今この図に対して往事を追憶し、感慨少なからず。乃ちこれと連係せるルース少将並びに亡父の談話を列記し、黒船初来の図に付すると云爾《しかいう》。

(明治三十三年大尉のとき水交社記事に寄稿)


 偸安 : 目先の安楽を求めること

 覬覦 : 身分不相応な事をうかがい望むこと