国家多事の秋に秋山中将を憶う

坂の上の雲 > 秋山真之 > 追憶編 > 国家多事の秋に秋山中将を憶う

衆議院議員 松岡洋右

   私が秋山海軍中将と知合いになった抑も初めは上海に於いてである。その頃私は三十歳で上海に領事として暫く赴任していたことがある。その時今の侍従長の鈴木貫太郎大将と秋山真之中将が南清警備艦隊の艦長として上海に来られた。私は自分の職責上自然警備艦隊と交渉が多い、随て秋山中将との往来も相当頻繁であって、遂には非常に懇意に交際をすることになった。
 そういう風にして交際をすることになったが、秋山中将と私との上海に於ける交際の期間は、比較的短かった、けれどもどういう訳か当時の秋山艦長と私の間は、最初から一見旧知の如き感を持ち、非常に懇意であった。秋山艦長は時には私の上海に於ける官舎へ来て、二人で深夜まで互に飲み、互に談じて、遂には秋山中将は官舎に泊まって行ったりされたこともあった。そうして私の一身上の事になると、秋山さんも非常に憂いたり、心配されたりしてくれるような間柄になり、ずっと後年までそういう状態であった。
 大正五年に私が大病の後、亜米利加から帰って来て、その秋観菊御宴に招かれて行った時にも、あの多勢の人の中を頻りに私を探して居られたということであった。即ち「松岡を死なしては・・・」と言いながら探して居られたという話である、しかし私はとうとう会うことが出来なかった。
 秋山中将の人格に関しては、私が蛇足を加えるまでもないように、その生存中から既に定評のある人で、私もその偉い人格に親しく接し、また親しい知己の感までも有つような間柄になったという事を、今日でもなお自分の一生に於いて、特に非常に貴い且つ有益なる記憶として存するのである。私も秋山中将の事を憶うと、何時でも必ず想起する一つの挿話がある。
 それは当時上海に於ける南清警備艦隊司令官は寺垣中将(その時は少将)であったが、その下に鈴木貫太郎、秋山真之の両氏が各々艦長であった。ちょうどその頃、かの有名な英国のキッチネル将軍が日支両国を漫遊に来たことがある、そして上海にやって来た。そこで寺垣司令官は英国総領事館に於いてキッチネル将軍に敬意を表された。その時秋山中将(その時は大佐)と私とが同道した。そうして秋山大佐が寺垣司令官のために通訳の労を取られた。日英両将軍の間によもやまの話が交換された。それから慥(たし)かその翌日の夕方であったと思うが、私はキッチネル将軍と再びある宴会の席上で一緒になった。その時私はキッチネル将軍に向かって「あなたは昨日、寺垣司令官との会見に於いて通訳の労を取られたキャプテン秋山は、何人であるかを御存じであったか」と問うた、ところがキッチネル将軍は怪訝な顔をして、「イヤ、あの人は初会見の人で知って居らない。またあなたのお尋ねの意味はどういう意味であるか」と問返した。そこで私は「あれが有名な日本海海戦のキャプテン秋山である」と言った所がキッチネル将軍は、非常に驚きの眼をいからって「それはしまった、自分はちっとも知らなかった、それならキャプテン秋山と大いに話をしてみたかったのだ」と答えられた。私も前日の会見の時に、私からでもそのことを簡単にキッチネル将軍に告げたらばよかったと思うたけれどもそれは後の祭りである。ここがやはり吾々日本人の特性なんだ、「この人が有名なキャプテン秋山大佐である」というような、如何にも不躾(ぶしつけ)な紹介を私共は一寸し難ねたのである。西洋人ならば直ぐにする所であろう。また秋山真之中将も自分から「私が、その日本海海戦のキャプテン秋山だ」と言わなかったのである。しかし兎に角もキッチネル将軍は非常に残念がって居った。キッチネル将軍その人も英雄であったかも知れないが、他の欧米人と等しくキッチネル将軍自身また非常な英雄崇拝者であった。
 秋山将軍に就いては、前にも述べたように私どもが妄評蛇足を加える必要はない。しかし私の眼に映じた秋山真之中将その人に就いて、敢て自分の印象を言えば、一見豪放磊落な人であったけれども、またその裏に非常な周密な思慮と細心の用意を有って居る人である。そうして頭脳は恐ろしく明晰で澄んで居た。單り軍事のみならず政治の方面、殊に上海方面へ行かれた関係であろうが、支那問題には非常に趣味を有たれて、支那明快なる頭で問題の研究を相当深くして居られる。対座して居っても何時も話の要点を直ちに掴んで行く人である。一言にして言えば、私はこの位物分かりの早いと思った人は稀である。そうして人間秋山としては非常に単純で、情の深い人である。直ちに信を人の腹中に置くというような人で、ああいう人は情的方面からいえば容易に人に騙される人であろうと思う。私も聊か愚な所があって、そういう傾きのある点を自らも知っている。そこが秋山中将と私が非常に同気相求めた点かも知れない。当時の人で秋山将軍を憶い出すと同時に、眼の前に浮かぶよく似た人と思えるのは山座圓次郎氏である。
 吾々は今や国家非常時に際会して、内外共に多事なる秋に当たり、実に秋山中将の如き英傑を憶出すことが切である。秋山中将の如きは教育に依って出来る人物ではない。生れ付きであるから作ろうにも作られないのである。(昭和七年八月)


※松岡洋右(1880〜1946):明治37年に外交官試験に首席合格。外務書記官、中国総領事などを歴任し、外務省退職後は満鉄理事、同副総裁などを務める。近衛内閣では外相となり、日独伊三国同盟、日ソ中立条約を締結。戦後、A級戦犯に指名されるが裁判中に病死した。この追憶談が書かれた昭和7年は満州国建国、五・一五事件、リットン調査団派遣などの出来事があった。松岡は翌年の国連総会に全権代表として出席。そしてリットン報告書が採択されると日本の国連脱退を表明し、議場から退場した。