上村彦之丞

坂の上の雲 > 登場人物 > 上村彦之丞【かみむらひこのじょう】


出身地

薩摩藩

生没年

1849年〜1916年

海軍兵学校

4期

海軍大学校

日清戦争時

秋津州艦長

日露戦争時

第二艦隊司令長官

最終階級

海軍大将


 薩摩藩出身。野津鎮雄の配下として戊辰戦争に従軍。明治4年に海軍兵学寮に入り、在学中に台湾征伐に出征した。その後、千代田航海長、大和副長、横須賀鎮守府参謀、鳥海艦長などを務め、明治27年の。日清戦争では秋津洲艦長として黄海海戦で戦功を挙げた。日清戦争後は軍務局長、軍令部次長、教育本部長など主に軍政畑の要職を歴任した。
 明治37年、第二艦隊司令長官として日露戦争に従軍。当初はウラジオ艦隊を捕捉できず各方面から「無能」と非難され続けた。しかし蔚山沖海戦で敵艦隊を撃破し、その際にロシア水兵を救助するという武士道を重んじる態度が賞賛されることとなった。日本海海戦に於いても臨機応変に対応し、バルチック艦隊の進路を遮るなど戦勝に貢献している
 戦後は横須賀鎮守府司令官、第一艦隊司令長官、軍事参議官を歴任。終生海上の戦将として過ごしたが、陸軍の黒木為體ッ様その豪胆な性格ゆえに元帥になれなかったと言われている。

豪快

ロシア水兵を追い払う

 明治21年、ロシアの戦艦ドミトリー・ドンスコイが修理のために横須賀のドックに入った。この時、日本海軍は地元の水交社を宿泊所にあてたのだが、日本など眼中にないロシア水兵たちは水交社でも我が物顔に振る舞っていた。
 ある日、上村は水交社に行き、ロシア水兵とビリヤードを始めた。すると一人のロシア士官が
「君は何という名前だ」
と尋ねてきたので、
「大和艦副長 海軍大尉 上村彦之丞だ」
と答えたのだが、日本語が分からない士官は再び名前を聞きなおした。
「大和艦副長 海軍大尉 上村彦之丞!」
上村が大声で怒鳴ると、その様子がおかしかったのか、その士官はクスクスと笑いだした。すると上村は、
「人の名前を聞いておきながら笑うとは、無礼千万!」
そう言って手にしたキューでその士官を殴り倒した。これに激怒した他のロシア水兵が襲いかかってきたが、上村はビリヤード台に上って天井のランプを引き外して投げつけ、さらに椅子を振り回してロシア水兵を全員追い払っってしまった。


敵に礼をするのは卑怯だ

 秋津州艦長として日清戦争の黄海海戦に従軍した際、敵の砲弾が飛んでくるたびに水兵たちが思わず頭を下げる様子を見た上村は「敵に礼をするのは卑怯だ!」と叱咤したという。


怒った通りに通訳しろ

 日清戦争後、上村は造兵監督長として渡英した。当時、日本はイギリスに軍艦「千代田」を発注していたのだが、アームストロング社は日本を見くびって、千代田用に発注された12センチ砲を無断で南阿戦争中の英軍に振り分けてしまった。これを聞いた上村は、アームストロング社の中心人物で当時の英国造船界の大物であったノーブルを呼びつけた。しかしノーブルは上村など眼中になく平然としており、また通訳もノーブルを恐れて上村の発言を笑顔で恐る恐る訳していた。すると上村は、
「君じゃいけない。ほかの通訳を呼べ!」
と交代を命じ、さらに代わりに来た通訳に対しては、
「通訳はただ訳せばいいのじゃない。怒った時は怒ったように、叱った時は叱ったように、すべて本人の態度と同じようにしなければならない」
そう言いつけると、ノーブルを徹底的に叱り飛ばした。これを機に、イギリス造船所の日本に対する態度は一変したという。


権兵衛に殴られるまで飲む

 酒好きの上村は兵学寮時代から乱酔乱暴という状態で、この癖が十数年経ってからもなおらなかった。山本権兵衛が艦長、上村が副長をしていた頃のある夜、陸上で大酒を飲んで戻ってきた上村が艦内で暴れ出すと、権兵衛は静かに上村に話しかけ、抱きかかえるようにして甲板に連れていった。この様子を目撃した少佐が心配してあとをつけると、権兵衛は上村の胸ぐらをつかんで殴りつけてという。

意外な一面

上村のフォークダンス

 明治35年、上村は練習艦隊司令官として遠洋航海に出て、オーストラリアを訪れた。到着後のある夜、市内では歓迎会が開催され、上村は乗員らとともに出席した。その席上、上村が西オーストラリア総督ベッドフォード対象夫人に挨拶をしていると、突然舞踏楽が鳴り響き参加者がダンスを始めた。上村も総督夫人の手を取らざるを得なくなり、部下達が手に汗を握って見守る中でダンスを始めた。上村は部下たちの心配をよそに見事にクォードリルを踊り、総督夫人からも褒められるほどであった。実は上村はダンスは好まないのだが、「郷に入りては郷に従え」とのことで、オーストラリア入港後に艦上で部下と共にダンスの練習に励んでいたのであった。後になって部下が「よくあの時に踊れましたねぇ」と褒めると、上村は「何クソと思ってお国のために体を動かしたのだ」と答えた。


過って改むるに憚ること勿れ

 明治43年のある日、第一艦隊司令官の上村は戦艦「相模」の検閲を行った。分隊点検の際、整列した水兵達の列外に四等行状の兵士が一人立っていた。「彼はどんな過失で四等行状になったのだ」上村は艦長から理由を聞くと、その兵士の前に立って言った。
「『過って改むるに憚ること勿れ』という言葉がある。今後はお互いにしっかりやろうじゃないか」
 これを聞いた四等行状の兵士は非常に感動し、絞り出すような声で「はい」と答えたという。

 ※『過って改むるに憚ること勿れ』 → 孔子の言葉。過失を犯したらためらうことなく改めよという意味。

日露戦争中の心境

 ウラジオ艦隊に逃げられてばかりの頃、上村は兵士の士気を下げないようにするためか、それとも自分の癇癪をしずめるためだったのか、よく魚釣りや山登りをしていた。ある日、上村と一緒に山登りに出かけた参謀の佐藤鉄太郎は、その心中を察して「長官、お苦しいでしょう」というと、上村は「なぜだ?山に登って疲れたからか」と答えた。さらに佐藤が「最近のご様子が、お苦しいように感じたのですが」というと、さすがの上村も「そう見えるかなぁ」と少し考え込んでしまった。「お察し申し上げます。しかし、知らん顔をしていましょう」「そうだな」そう言って二人は下山し、旗艦へ戻った。

その他

幼少期の極貧生活

 上村が幼い頃、父の藤一は友人を救うために財産を使い果たしてしまった。そのため上村は幼少期から苦しい生活を強いられていた。ウラジオ艦隊を破るまでの我慢強さはこの頃に培われたのかもしれない。


九死に一生を得た経験

 明治10年、上村は西南戦争に従軍するため、軍艦「雲揚」に乗艦して九州に向かった。しかし、雲揚は紀州沖で難破し、乗員はほとんど溺死した。生き残ったのは上村を含む3人だけであった。


医者の言うことを聞かない

 ある時、東郷が上村を次のように評した。「上村は戦争には強かったが、病気には弱かった。病気というのは医者の言うことを聞かないといけない。しかし彼は医者の言うことを聞かずに、自分で体をこわしてしまった。」


広瀬にキス

 明治32年、朝日の回航委員長となった上村は渡英の途中でロシアを視察した。この時、留学士官としてロシアに滞在していた広瀬は視察や会見などの手配を行い、最終日には停車場まで上村を見送りに行った。そして汽車が動きだそうとした時、上村は窓から半身を乗り出して広瀬を呼び寄せ、「何分にもこの国のことは頼んだぞ」と言いながらいきなり広瀬の首を抱え込んで頬にキスをしたという。この時も上村は酔っぱらっていたのかもしれない。