「坂の上の雲」登場人物
五十音順一覧表 【な】

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内藤鳴雪【ないとうめいせつ】

 1847年〜1926年。松山藩出身。本名は素行(もとゆき)。藩校明教館、江戸の昌平坂学問所で漢学を学び、維 新後は愛媛県の学務課長、文部省の参事官などを務めた。明治24年に退官して常盤会寄宿舎監督に就任し、寄宿生で あった正岡子規から俳句を学ぶようになった。以後、子規門下の重鎮として句作に打ち込み、明治を代表する俳人の一 人となった。明治40年に常盤会寄宿舎監督を秋山好古に譲った後は執筆に専念し、「鳴雪句集」、「俳句作法」、「 鳴雪自叙伝」などを出している。

漢学と洒落

 新聞・雑誌の俳句選者を務めていた鳴雪について、明治44年の文壇人国記(横山健堂著)は、「鳴雪の選評に洒落あり、奇警あり、漢詩人の、気の利きたる詩評を見る心地す。今の俳壇に、彼ほどの漢学と、洒落とを兼ね有するもの有る無し。彼をして壇場を独壇せしむる所以」と評している。



長岡外史【ながおかがいし】


長岡外史

出身地

長州藩

陸軍士官学校

旧2期

生没年

1858年〜1933年

陸軍大学校

1期

最終階級

陸軍中将

日露戦争時

参謀次長


 藩校明倫館を経て陸軍士官学校へ入学し、その後一期生として陸軍大学校へ入学。参謀本部第二局員、第一師団参謀などを務め、日清戦争では混成第9旅団参謀として出征した。その後は主に参謀本部、軍務局に勤務し、日露戦争が勃発すると児玉源太郎の後任として参謀本部次長に就任。第三軍への二十八センチ砲配備を推進したほか、樺太占領を計画した。戦後は歩兵第2旅団長、軍務局長、第13師団長、第16師団長を歴任。第13師団長時代には軍隊にスキーを導入し、民間へも普及させている。大正5年に中将で予備役編入となり、その後は衆議院議員、国民飛行会会長などを務めた。


外交官として適材

  ドイツ駐在時代、公使館で開かれた舞踏会に参加した長岡は、破調極まるドイツ語を乱発して貴婦人に舞踏を挑み、紳士と談笑するなど、当夜の主人公のように振る舞った。彼の厚かましさと如才なさを見た公使夫人は、軍人としてよりも外交官として適材であると称揚した。


寺内正毅との相性

 長州人であれば誰でも庇護する寺内正毅であったが、その性格の違いから、突拍子もない言動の多い長岡を危険視していた。寺内が朝鮮総督として赴任する際に精勤な岡市之助を軍務局長に据え、長岡を師団長に移したのは、留守中に長岡が何か仕出来すのを懸念したからとも言われている。長岡自身もその性格上、干渉好きで厳格に規律通り動かす寺内の下で働く事は好まなかったという。



永沼秀文【ながぬまひでふみ】


永沼秀文

出身地

仙台藩

陸軍士官学校

旧8期

生没年

1867年〜1939年

陸軍大学校

最終階級

陸軍中将

日露戦争時

騎兵第8連隊長


 陸軍士官学校卒業後に騎兵第1大隊付となり、騎兵第6大隊中隊長、騎兵第11連隊中隊長などを務めながら秋山好古と共に日本騎兵の育成に携わる。日露戦争では騎兵第8連隊長として出征。奉天会戦前の明治38年2月には騎兵2個中隊(176騎)の挺身隊を率いてロシア軍後方へ進出し、破壊工作で敵軍を攪乱させるなど日本軍の勝利に貢献した。戦後は騎兵第13連隊長、騎兵第1旅団長を務め、大正6年に中将で退役した。



夏目漱石【なつめそうせき】


夏目漱石

出身地

東京

出身校

帝国大学英文科

生没年

1867年〜1916年

所属

余裕派


 本名金之助。明治・大正期を代表する文豪。二松学舎に成立学舎を経て大学予備門へ入学。在学中に同窓の正岡子規との交流が始まり、子規のペンネームの一つであった「漱石」の号を用いるようになる。帝国大学英文科卒業後は東京専門学校(早稲田大学)、松山中学、第五高等学校で教鞭を執る。明治33年にイギリスへ留学。帰国後の明治38年に高浜虚子の勧めで「ホトトギス」に連載した「吾輩は猫である」で作家デビュー。翌年には松山中学での教師経験をもとにした「坊っちゃん」を連載している。明治40年に教職を辞して朝日新聞社に入り、以後は専業作家として「三四郎」「それから」「こころ」などを発表していった。明治43年6月に胃潰瘍で入院し、8月には療養先の修善寺温泉で大吐血をして一時危篤に陥る(修善寺の大患)。その後も胃潰瘍の再発に苦しみ続け、大正4年に49歳で急逝した。

松山中学時代

  漱石の代表作のひとつである「坊ちゃん」は、彼が松山中学校に教師として赴任した時の経験をもとに執筆された作品である。
 漱石が東京から赴任したばかりの頃、生徒たちが新任教師の実力を試そうとして意地悪な質問をした。「先生、そこのところの訳が間違っておりますが」そう言って前日に徹夜をして辞書で調べてきた意味などを説明すると、漱石はその質問に悠々とした態度で次のように答えた。「一つは辞書の誤り、もう一つは著者の誤りだ。その二つとも書物のほうを直しておきなさい」。
 また、松山中学には『教科書以外の品物は教室に持ち込んではいけない』という生徒規則があった。それにもかかわらず、当時子規と愚陀仏庵で同居して句作に打ち込んでいた漱石は教壇へ俳句集を持ち込み、生徒達が黒板で英作文の問題を解いている最中にそれを読んでいたという。


米と稲

 子規の「墨汁一滴」の中で漱石について次のように書いている。
 『余が漱石と共に高等中学校に居た頃漱石の内をおとづれた。漱石の内は牛込の喜久井町で田圃からは一丁か二丁しかへだたっていない処である。漱石は子供の時分からそこに成長したのだ。余は漱石と二人田圃を散歩して早稲田から関口の方へ往たが大方六月頃の事であったらう。そこらの水田に植えられた苗がそよいで居るのは誠に善い心持ちであった。この時余が驚いた事は、漱石は、我々が平生喰う所の米はこの苗の実である事を知らなかったといふ事である。』