菊池謙二郎

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菊池謙二郎(1867〜1945)

 七変人の一人。東京帝国大学国史科卒業後、山口高等中学校(山口大学の前身)の教授、岡山県津山尋常中学校(県立津山高校の前身)、千葉県尋常中学校(県立千葉高校の前身)の校長として赴任。明治31年には31歳の若さで第二高等学校長(東北大学教養部の前身)に抜擢される。その後、茨城県立水戸中学校(水戸一高の前身)の校長、衆議院議員を務めるとともに、東湖研究、水戸学研究でも名を馳せた。

子規と菊池

 明治31年、菊池の校長就任を知った子規は大原家に次のような手紙を送っている。
『私同学の友人菊池という男は、仙台第二高等学校校長と相成候。これが同学年中第一の出世なるべく候』
 また、明治34年には菊池宛に下宿時代を懐かしむ手紙を送っている。
『河東碧梧桐は昨年末に結婚、猿楽町廿一番地に住居申候。猿楽町廿一番地とはなお貴兄の御記憶に残り居候哉。如何、尾谷という下宿屋今もありて、碧梧桐寓居と隣居候由。尾谷という下宿より連想を起こせば、無数の記憶は心頭に現れ申候。貴兄は何とかという少年と同居、小生は大口という我儘者と同居致居候。鍋焼饂飩は毎夜格子の外に来て荷を下ろしたることも有之候。貴兄が石井らと鯨汁を食らおうとする途端、小生が嗅ぎ付けたる事も有之候。貴兄若し当時を想起し玉はば笑いの種なるべく候。小生はこの事を思う度に、一度は笑い、一度は泣申候』
 後年、菊池は晩年の子規を「素直で修飾がなく、真人に接するような思いをした」と評した。

真之と菊池

 菊池は昭和七年に「追憶片々」という追憶談を記し、その中で真之の思い出を語っている(これによると、子規と真之の大学予備門入学時期が「坂の上の雲」とは異なっている)。七変人遊技競の「野球」で子規を抑えて大関になっている真之と菊池は、よく下宿前でキャッチボールをしていたとのことである。