児玉源太郎

坂の上の雲 > 登場人物 > 児玉源太郎【こだまげんたろう】


児玉源太郎肖像

出身地

徳山藩

生没年

1852年〜1906年

陸軍士官学校

陸軍大学校

日清戦争時

陸軍次官

日露戦争時

満州軍総参謀長

最終階級

陸軍大将

伝記、資料

「児玉源太郎」(宿利重一)
「児玉陸軍大将」(写真画報臨時増刊)

 長州藩の支藩である徳山藩の中級武士の家に生まれる。義兄が佐幕派に惨殺され家禄を失うが、倒幕派が権力を取り戻した機に家名を復興。戊辰戦争では献功隊の半隊司令として東北、函館を転戦。維新後は兵学寮に入り、卒業後に参謀として佐賀の乱、神風連の乱、西南戦争などの反乱鎮圧で活躍した。明治20年には陸軍大学校の初代校長を務め、来日していたメッケルの教えを受けた。日露戦争開戦前の明治36年、対露戦計画を立案中であった参謀次長の田村怡与造が急死すると降格人事となる後任を引き受ける。さらに開戦後は満州軍総参謀長として大陸に渡り、総司令官の大山巌を作戦面で補佐して日本陸軍の勝利に貢献した。
 その一方、政治面でも手腕を発揮し、陸軍次官、陸軍大臣、内務大臣、文部大臣、台湾総督などを歴任。将来の首相候補とまで言われていた。
 日露戦争後は参謀次長、参謀総長、南満州鉄道株式会社創立委員などを務め、戦後経営の舵取りを期待されていたが、戦争終結から僅か八ヶ月後の明治39年7月に脳溢血で急逝した。

佐賀の乱、神風連の乱、西南戦争

佐賀の乱で負傷

 明治7年に勃発した佐賀の乱では野津鎮雄の参謀として従軍した。中隈の激戦に於いては、味方が次々と斃れていく中で一歩も引かずに奮戦し、左大腕などに三発の銃弾を受ける重い傷を負うほどであった。


児玉が生きていれば大丈夫

 明治9年、神風連の乱が起こると、反乱兵達は熊本鎮台司令官の種田少将を始め鎮台幹部を次々と襲っていった。琉球出張中と勘違いされて運良く難を逃れた児玉が従僕一人を従えて種田司令官の家に駆けつけると、すでに種田は殺害されており、生き延びた河島書記ら2,3人が「鎮台に引き返し、城を枕に討ち死にしよう」と主張していた。児玉はこれを制止し、「そんなに騒いでも何にもならないから、まずは前後の策を講じるのが第一だ」と言うと、河島に「兵は今夜鎮台を襲った賊を討伐すべし。司令官種田少将は健在なり。この命令を受領した隊は直ちに護衛兵を送るべし」との命令書を持たせて鎮台に向かわせた。その後、この命令書を受領した小川又次(当時第三大隊長)の部隊が到着すると、児玉はその部隊を率いて熊本城に入城し、各方面に対して反乱鎮圧の指示を出し始め、東京から派遣された大山巌、樺山資紀らが到着する前にほぼ鎮圧してしまった。。
 当時東京にいた山県有朋は反乱の報告を受けて一時驚いたが、「なに、心配はいらぬ。児玉が生きているから大丈夫だ」と言い落ち着いていたという。


熊本籠城軍参謀として

 明治10年の西南戦争では、司令官の谷干城、参謀長の樺山らと熊本城に籠城した。この時、児玉は城内各所の防御工事を指揮すると共に、薬瓶に火薬を詰めた手製の手投げ弾を考案するなどして城を守りぬいた。後に樺山は「自分も胸部を撃たれてしばらく出ることができなかったが、児玉が一人で全ての事をやってくれたので安心して手当てをすることができた」と語っている。


乃木の自刃を止める

 西南戦争後、軍旗を奪われたことに責任を感じていた乃木を心配した児玉は、乃木を自分の目が届く鎮台参謀へ配属されるように働きかけ、常にその行動を監視していた。ある夜、乃木が割腹自殺を図ろうとしたとき、隣室にいた児玉と西島助義が部屋にとび込んで押さえつけ、乃木から刀を取り上げた。どうしても死のうとする乃木を児玉は必死に説得し、なんとか自殺を思いとどまらせた。そのあと「しかし、このためにいつか必ず死ぬから、その時は許してくれ」と言う乃木に対し、児玉は「わかった。でも、独りで死ぬのは許さん。その時は必ず自分に知らせろ」と約束をさせ、現場に居合わせた西島に証人を頼んだ。
 その後、命を預かったはずの児玉が先に世を去り、乃木は児玉の立ち会いがないまま自害した。殉死の現場に駆けつけた西島は「お二人が亡くなられたのだから、もう秘すべきことではないだろう・・・」と、周囲の人々に涙ながらに当時の模様を語った。


軍旗喪失の罪を被る

 児玉の兵籍には一つだけ罰科がある。西南戦争中に乃木軍が軍旗を奪われ、その届け出が遅れたことに対して謹慎三日を命じられたものである。児玉自身には罪はないが、当時熊本鎮台の参謀長であった樺山が負傷入院中のため、参謀長代理の児玉が責任をとる形になったようだ。

台湾総督時代、閣僚時代

二日酔いの教訓

 台湾総督時代、視察に同行した部下が二日酔いで体調を崩したときに、児玉はタバコの灰を薬に見せかけてその部下に飲ませた。後になって騙されたことに気づいた部下は悔しがったが、児玉から「飲酒も度を過ぎて中毒になってしまえば、人に馬鹿にされると思わなければならないぞ」と諭され、その後は反省して飲酒を慎むようになった。


政治とビリヤード

 台湾の総督府で給仕相手にビリヤードをしていたとき、児玉があまりにも下手なので見ていた来客が
「台湾の経営も的外れにならないように」
とからかった。すると児玉は、
「玉を以て政治は論じられない。政治はこれと反対で突いて外れたら大変だから、僕はキューをかまえて政治の玉が転がってくるのを待っている。政治というものは、人民や有志、悪口屋やイタズラ小僧が世の中に多いから、様々な問題を担ぎ出しては向こうの方から転がって来る。来たときに突けば僕でも間違いなく当たるよ」
来客はこの児玉の比喩に感嘆したという。


政治家 児玉源太郎

 明治36年に桂太郎内閣の内務大臣兼文部大臣として入閣した児玉は、行政改革を断行するにあたり「この種の事業は、小刀(ナイフ)を用い鉋(かんな)を掛けるような尋常手段ではだめだ。必ず大鉈(なた)を振るってこれを削らなければならない」と宣言しその活躍を期待された。しかし、大鉈案は閣僚や官僚らの猛反対にあい、小刀案の実施に止まってしまった。
 この当時、児玉は内務大臣、文部大臣の他に台湾総督も兼任していた。あまりにも荷が重いのではないかと知人が心配すると、児玉は笑いながら「なに、今死ねば肩書きが多いから墓が立派になっていい」。


日露戦争と児玉

わしが田村のあとをやる

 明治36年、児玉はドイツ公使官のパーティーに招待された。当時、公使官にはロシア軍人と親しい駐在武官 エッチェル大佐がおり、彼は田村怡与造の病状について頻りに児玉に質問してきた。この頃には田村の病状がかなり悪化しており、陸軍内部ではその事を外部には伏せていたのだが、児玉は「心配してくれてありがとう。しかし、残念ながらまず回復は不可能だ」と正直に答え、さらに医師の診断結果までエッチェルに教えた。意表を突かれたエッチェルは驚いたが、「それでは後任者は誰になるのでしょうか?」と、さらに探りを入れようとした。すると児玉は「わしが田村のあとをやることになっている。ハッハハ」と笑いながら答えた。この意外な発言に驚いたエッチェルは、それ以上質問を続けることが出来なくなってしまった。もちろん、この発言はスパイに対する演技ではあったのだが、この数ヶ月後には本当に児玉が田村の後任として参謀次長に就任することになる。


児玉将軍の軽気球

 陸軍が初めて軽気球を採用したとき、これに試乗した児玉は顔面蒼白となって吐いてしまった。それ以来、軍内部では泥酔して吐く者を「児玉将軍の軽気球」と呼んだという。後に満州軍参謀長となった児玉は、出征するとすぐに大本営に対して軽気球を送るように要請した。


大将昇進を喜ばない

 日露戦争勃発から数ヶ月後、児玉は乃木らとともに大将に昇進したのだが、それを喜ぶ気配がなかった。得利寺の戦闘で多くの死傷者をだし、戦争もまだ前途多難である時期に昇進するのは喜ぶべき事ではないと、独り言のように言っていた。また、この頃に裏庭でタバコをくわえて散歩しながら「一将功成萬骨枯」というような詩吟をしている姿を、幕僚らが目撃している。


捕虜の武官を安心させる

 奉天会戦後、ロシア軍に従軍していた欧米各国の武官たちも捕虜となり、日本軍の司令部へ送られることになった。彼らは皆、首を切られるのではないかと心配して、通訳の問いかけにも答えられないほどであった。司令部に到着すると、児玉が出迎えに来ていた。「やぁ、よく来た。今日から君たちは日本の国賓だよ」児玉は元気な口調で、しかも日本語のままでそう言いながら、武官たち一人ずつと握手をした。彼らは誰も日本語を理解できなかったが、児玉の態度を見てすっかり安心したという。


部下を労わる?

 第七師団が二○三高地を攻撃していた頃、児玉に随行して旅順に滞在していた田中国重は風邪をひいて39度の熱を出していた。田中が苦しそうに咳をしていると、児玉が懐から二粒の丸薬を取り出し「いま貴様に倒れられたら困るから、これを飲んで参謀の部屋で休んでおれ」と言った。しかし、田中が参謀室に移ってから三十分ほどすると児玉は自分が言ったことを忘れたらしく、「田中、田中!」と自室に呼び出した。後に田中は「とても休養などできませんでした」と回顧している。


子どもの手紙に返事を出す

 明治37年の12月下旬、イアン・ハミルトンらは児玉から夕食に招待された。一時間半ほど雑談している中で、ハミルトンが大阪の少年から手紙を受け取ったという出来事を話した。すると児玉は全国の少年達から届いた手紙の束を指し、「出来るだけ返事を出すようにしている」と語ったという。


戦場でも不用心

 陣中では大山が護衛の憲兵らを引き連れて巡回していたのに対し、児玉は副官だけを連れて軽快に見回りをしていた。ただ、あまりにも不用心なため、大山から「護衛の兵を連れていくように」と注意されるほどであった。


弁当の抜き打ち検査

 日露戦争中の陣中に於いては、何事にも抜け目なく注意を払っていた。ある時、下士卒に配布される弁当の良否を調べようと思い立った児玉が炊事係を待ち伏せして弁当を一つ取り上げ、それを食べてみると非常に粗末なものであった。児玉から「こんな物を兵士に食わせるな」と叱責された炊事係がその後は気を使うようになったため、各隊の兵士からは感謝されたという。

その他のエピソード

酒好き、タバコ好き

 児玉もかなりの酒好きであり、明治29年には飲みすぎで卒倒したことまであった。その後は一時的に酒を控えていたが、日露戦争がはじまると陣中で再び酒を飲み始めた。旅順陥落の報告を聞いた際は嬉しさの余り鯨飲し、遂には酔っ払ってしまって頭から酒を浴びていたという。
 また、喫煙家としても有名であった。常に外国煙草をパイプに詰めて吸っていたのだが、全く掃除をしないため吸うたびにジュージューと音がしていた。周囲の人々はその音を気にして注意したが、児玉は平気な顔をしてそのまま吸い続けていた。


陸軍次官が酔って交番へ

 陸軍次官時代のある夜、伊藤博文、山県有朋、桂太郎らとともに香雪軒で宴会を開いたことがあった。この時、曾禰荒助などは長州の重鎮らに遠慮しておとなしく飲んでいたが、児玉は先輩に構うことなく芸妓と一緒に大騒ぎをしていた。それでも騒ぎ足りなかった児玉は、帰りにはチョンマゲのカツラを頭に乗せてすれ違う芸妓らをからかいながら歩いていたため、とうとう警察に連行されて交番へ連行されてしまった。しかし、ちょうど副官が追いついて事態を収拾したため、陸軍次官が交番で取り調べを受けるという滑稽な事態は免れることができた。


洋服屋に小さい体を褒められる

 児玉がベルリンの洋服屋に褒められたと言うと、ある人が「それは閣下があまりにも小さく、洋服屋が仕立てに骨が折れるから誉めたのでしょう」と横やりを入れた。すると児玉は「いや、そうではない。俺の身体は小さいことは小さいが、『たいていの日本人は胴が長くて足が短いにも拘らず、あなたの身体は全てが適当に発達している、あなたのような身体は他の日本人では見たことがない』と大変褒められた」と語った。児玉はこの褒められ方がよほど気に入ったのか、小さいと言われるとすぐにこの話を持ち出していたという。

児玉源太郎写真集

熊本鎮台時代の児玉源太郎
熊本鎮台幹部集合写真。前列右から二人目が樺山資紀参謀長、三人目が谷干城司令官。
後列右端が川上操六(参謀)、中央が児玉源太郎(参謀)、左端が小川又次(第三大隊長)。

明治初年の児玉源太郎
明治初年の軍装。前列右端は児玉源太郎。

奉天の児玉源太郎(1)奉天の児玉源太郎(2)
奉天会戦前後の児玉


児玉源太郎と井口省吾、松川敏胤
右から児玉源太郎、井口省吾、松川敏胤


平服姿の児玉源太郎
平服姿の児玉


馬上の児玉源太郎
恩賜の愛馬