講道館

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 地下鉄「春日駅」「後楽園駅」から徒歩数分のところにある柔道の総本山「講道館」です。

 第二回旅順口閉塞作戦で戦死した広瀬中佐は明治19年頃から講道館で柔道を習い始めていました(詳細は「広瀬武夫」の「広瀬と柔道」を参照)。その縁で、広瀬が戦死した際に所持していた血染めの海図が朝日の乗員から講道館に寄贈され、現在も講道館2階の柔道殿堂に展示されています。この海図と朝日乗員が講道館に送った手紙は当時の写真雑誌「日露戦争実記」の臨時増刊号「軍神広瀬中佐」にも掲載されました。


(大きな写真は別サイト「日露戦争資料集」の「第二回旅順口閉塞作戦」に掲載しています)


 さて、柔道殿堂には広瀬の他に西郷四郎六段、正力松太郎十段など殿堂入りした柔道家達の肖像写真が飾られているのですが、その中に広瀬と同じ軍服姿の人物がもう一人いました。湯浅竹次郎六段、「相模丸」の指揮官として第三回旅順口閉塞作戦に参加し戦死した海軍軍人です。殿堂には湯浅大尉(戦死後、少佐に昇進)の書簡も展示されています。彼についてはあまり情報がないので、「日露戦争実記」の臨時増刊「旅順口閉塞隊」に掲載されている写真と人物紹介を載せておきます。

第三次旅順口閉塞に全船員の収容せられざりし相模丸の指揮官海軍少佐 湯浅竹次郎氏の旧友 尼野源次郎氏の談を聞くに、
 「湯浅君とは広瀬中佐と同じく講道館の同窓なり。君は会津藩士にして、維新落城の後東京に移り、牛込区若宮町に在りき。舎兄松之助氏は今鹿児島なる鉄道作業局事務所に勤務し、同じく講道館友なり。竹次郎君は明治三十四年今の夫人栄子を娶り、翌年長女を挙げたり。君が海軍兵学校へ入学せしも館主嘉納先生の斡旋に由りしなり、平素客と談ずるに勤王論を持出さざるは無かりき云々。」
 聞く少佐は柔術に長じ講道館に在りて、初段たりしはその十六歳の頃にて広瀬中佐よりはこの道の先輩たり。今三段に進めりと聞く。嗚呼今回の役少佐は果たしてその身命を致せしか、その齢わずかに三十四歳。氏は実に厳島の砲術長なりき。


 講道館の史料館見学は無料ですが、開館は平日だけです。また、イベントなどの関係で臨時休館になることもあるので、遠方から訪れる場合は事前に問い合わせたほうが良いかもしれません。


交通案内


地下鉄「春日駅」「後楽園駅」から徒歩数分。