日露戦争中の海軍次官で、後に海軍大臣、首相などを務めた斎藤實の記念館と旧宅。彼の雅号「皋水(こうすい)」は故郷「水沢」の文字を逆にしたものだそうです(皋は沢の古字)。ここでは海軍大将の大礼服や勲章写真などが展示されています。また、血痕の付いた布団や着物、割れた鏡など、二・二六事件当時の惨劇を物語る資料も展示されています。隣接する旧宅も公開されており、ここの書庫には佐藤鉄太郎の「帝国国防史論」やマハンの著書などがありました。手続きをすればこれらの書籍も閲覧可能とのことです。
子規句碑 (背に吹くや五十四郡の秋の風)
子規は明治26年に、松尾芭蕉の「奥の細道」の追体験をする旅に出ました。そして約1ケ月に及ぶ旅の様子を、新聞「日本」の紙上に『はて知らずの記』と題して連載しています。
とにかくに二百余年の昔芭蕉翁のさまよひしあと慕ひ行けばいづこか名所故跡ならざらん。其の足は此の道を踏みけん其目は此の景をもながめけんと思ふさへ たゞ其の代の事のみ忍ばれて俤は眼の前に彷彿たり。
その人の 足あとふめば 風薫る
7月19日に東京を出発。その後は仙台、松島、最上川、秋田、北上などを経て、8月19日に水沢へ到着。
午後の汽車にて水沢に赴く。当地公園は町の南端にあり。青森、仙台間第一の公園なりとぞ。桜、梅、桃、梨、雑樹を栽う。夜汽車に乗りて東京に向ふ。
背に吹くや 五十四郡の 秋の風
「五十四郡」は東北地方の郡の総数のようです。写真の句碑は、昭和24年に建立されたものです。水沢を発った翌日、東京へ戻った子規は『はて知らずの記』を次のように締めくくっています。
始めより はてしらずの記と題す。必ずしも海に入り天に上るの覚期にも非らず。三十日の旅路恙なく八郎潟を果として帰る目あては 終に東都の一草庵をはなれず。人生は固よりはてしらずなる世の中に はてしらずの記を作りて今は其はてを告ぐ。はてありとて喜ぶべきにもあらず。はてしらずとて悲むべきにもあらず。無窮時の間に暫らく我一生を限り我一生の間に暫らく此一紀行を限り冠らすにはてしらずの名を以てす。はてしらずの記こゝに尽きたりとも誰れか我旅の果を知る者あらんや。
秋風や 旅の浮世の はてしらず
齋藤實銅像
満鉄総裁、逓信大臣、東京市長などを務めた後藤新平の記念館。彼は児玉源太郎の要請で台湾総督府民政長官も務めています。また、刺客に襲われた板垣退助の治療をしたのも、当時医者だった後藤でした。
ここの記念館には後藤の遺品や写真、資料などが展示されています。また、館内に置いてある電話機で後藤の肉声を聞くこともできます。
「坂の上の雲」とは関係のない場所ですが、水沢在住中にお世話になっていた国立天文台の水沢VERA観測所も紹介します。
木村記念館
観測所の敷地内にある、初代所長 木村栄の記念館。緯度観測に用いた望遠鏡や帝国学士院恩賜賞のメダルなどが展示されています。
1899年から地球極運動の共同観測が行われるようになり、同じ緯度上に位置する世界各国の観測所(日本では水沢)が参加しました。各地での観測結果をドイツの中央局に送り、そこで「観測された緯度変化」と「計算された緯度変化」の差を比較したところ、日本の観測値が一番悪いとされました。この結果を聞いた木村はさらに研究を進め、緯度変化を表わす式に新たな変数(Z項)を加えることによってその精度が向上することを発見します(1902年)。この結果を用いて再度計算を行ったところ、実際は水沢の観測精度が一番良かったということが明らかになり、この功績によって木村は明治44年に帝国学士院恩賜賞の第1回目の受賞者となりました。
さて、ここで夏目漱石が登場。漱石はこの学士院恩賜賞には批判的でした(木村の功績は認めている)。彼の主張を要約すると、
「 一般の人々はつい最近まで木村博士のことについて全く知らず、科学という世界の存在にも無関心だった。今回の表彰によって闇のような科学界にスポットライトが当てられたが、木村博士・Z項の部分だけが明るくなり、それ以外の学者や分野は相変わらず闇の中である。学士院は木村博士だけでなく、その功績に応じてほかの学者も同時に表彰すべきであった。そうしなければ、ほかの学者の研究がほとんど価値がないようなものだという誤解を一般社会与えてしまうことになりかねないからである。」
この数ヶ月前、漱石は文学博士号を辞退しています。その理由は、
「 博士号に『博士でなければ学者でない』と世間に思わせてしまうような価値を付与すると、学問は少数の博士の専有物になってしまい、それ以外の学者たちが一般社会から無視されてしまうという弊害が出てくる可能性がある。」
つまり、「目立たない他の学者達にも配慮しろ」ということ。ちなみにこの頃の博士号というのは今と違って文部省が勅令の定める学位令にもとづいて授与するものであり、漱石は「文部大臣に対し小生は不快の念を抱くものなる事を茲に言明致します」とまで言っています。
一方、Z項発見後も木村は研究に没頭しました。そのため世間のことなど全く気にせず、日露戦争の勃発すら知らなかったそうです。水沢の市民が日露戦争の勝利を祝って提灯行列をしたときのこと、それを見た木村が一人の市民に尋ねました。
「いったい、何を祝っているんですか?」
「日本が戦争に勝ったんですよ!!」
「勝った・・・? どこの国と戦っていたんですか??」
Z項を発見した木村博士。日本海海戦でZ旗 が掲げられたことは知らなかったようです。
旧緯度観測所本館
大正十年に建設された観測所の本館。中央の塔頂には天気予報旗が掲げられ、地元の人々に天気予報を知らせていたそうです。この本館が建てられた頃に、岩手出身の童話作家 宮沢賢治が何度かこの観測所を訪れています。この本館と木村所長は「風野又三郎」にも登場しています。
20m電波望遠鏡
現在、水沢観測所は「VERA」というプロジェクトの中心的な役割を担っています。このプロジェクトでは、水沢、父島、鹿児島、石垣島に設置された20m電波望遠鏡を使って天体までの距離を測定し、銀河系の三次元地図を作成します。
☆リンク : 水沢VERA観測所 VERA 観測所の写真(水沢、鹿児島、父島)