二○三高地

坂の上の雲 > 観光 > 旅順、奉天の旅 > 二○三高地



 東鶏冠山北堡塁の次に向かったのが激戦地の二○三高地。駐車場に着くと・・・

 

 カゴ屋さんが待っていました! 往復で100元とのこと。最初は参加者全員が断って登り始めたのですが、カゴ屋さんたちは観光客が途中で疲れるのを期待して追いかけてきました。彼らの期待どおり、途中で数人の方がカゴに乗りました。でもこのカゴ屋さん、運び慣れているのかと思ったら意外と体力が無くて、かなり辛そうな表情で坂を登っていました。見かねた乗客が「少し休みなよ」と声をかけ、

 途中で一休み。写真ではわかりにくいのですが、それほど急な坂道ではありません。たしか頂上には十数分程度で着いたと思います。あと、登る途中でバイクに乗った中国人に追い抜かれました。どうやら、頂上の土産物売りに「客が来るぞ」と知らせに行ったようです。この坂道を登り終えると、そこにあるは



有名な爾霊山の記念碑。

 

本日天気晴朗♪

 

さて、旅順港は・・・・・、




・・・・・・・か、霞んでる(泣)



 望遠レンズで何枚も撮影し、良く撮れたものを帰国後に頑張って画像処理。旅順口と中国海軍の軍艦数隻が何とか見える写真になりました。「ちょっと霞んでいるけど、本当に港がよく見えますね。ここに最初に登った日本兵は、きっと我々以上に感動したんでしょうねぇ」、ほとんどの方がこのような感想を述べていました。




ちなみに、日露戦争当時はこのように見えていました。


この日はどう頑張ってもよく見えないので、開き直ってこんな一枚。

 『砲臺の 舳にかすむ 港かな by子規』。この大砲、最近になって観光用に置かれたものです(数年前の写真では、この位置には古い建物やアンテナが写っています)。こんな余計な物を作って雰囲気をぶち壊さなくてもいいのに・・・・。余計な物と言えばもう一つ、



 塹壕です。でも、ロシア軍が作ったものではありません。数年前に中国人が作った偽塹壕です。作った後で材料の石を片付けるのを忘れています。この偽塹壕は駐車場へ戻る道とは反対側の斜面に向かって伸びていました。この写真を撮った後、重要なことを思い出しました。「そういえば、乃木保典の戦死地ってこの下でしたよね?」、すると添乗員さん「そうですよ。昔はこのすぐ下にあったんですけど、最近になって史実通りの場所に戻されたので少し遠いですよ」。この時、他の方々は坂を下り始めていました。「石碑までどれくらいかかりますか?」 「若い方なら15分くらいですかね」 「バスの出発時間までは・・・?」 「あと30分くらいあります」 「すみませんっ。ムリそうなら途中であきらめて帰ってくるので、行ける所まで行って来ます!」 添乗員さんにそう言い残して、一気に石段を駆け下りました。



 途中で見つけた本物のロシア軍塹壕跡。じっくりと見学する余裕がなかったので写真だけ撮って駆け抜けました。必死に駆け下りること3〜4分、


 乃木保典戦死地の石碑。「そんなに遠くなかったなぁ。この調子なら時間内に帰れそうだ」、そう思って来た道を振り返ると・・・・・・・下りてくる時は余裕がなかったので気づかなかったのですが、こっち側の斜面は駐車場から頂上に向かう坂道よりも急勾配でした。

 ちなみに、日露戦争当時の二○三高地は上の写真のようになっていました。現在は草木が生い茂っていますが、当時は身を隠す遮蔽物が何もない禿げ山。攻撃正面は見ての通り急斜面です。

 「ヤバイ、間に合わないかも
(汗)」 今度は下りてきたとき以上に必死になって石段を駆け上がりました。ヘトヘトになって息切れしながらも、何とか7〜8分で偽塹壕に生還。「意外と早かったですね。やっぱり若い方は体力がありますねぇ」 と添乗員さんからは感心されましたが、大学の部活を引退してから数年間は運動不足だったので、久しぶりの階段ダッシュは本当に疲れました。

 このあと気づいたのですが、ツアー参加者最年少の僕は日露戦争当時の日本兵とほぼ同年代(旅順攻撃の時、乃木保典は24歳、『肉弾』の櫻井忠温は25歳)。思わぬところで旅順攻撃に参加した日本兵と同じような苦労を体験することになりました。でも当時の兵隊さんは弾丸の飛び交う中、重装備で階段すらない急斜面を駆け上がったのだから、もっと大変な思いをしたんですね。