君が終焉の記

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 子規の最期を看取った高浜虚子の回顧談(出典「子規言行録(明治版)」)。9月18日の昼頃から翌朝まで、子規が亡くなる前後の様子を事細かに記している。



  九月十八日午前十一時頃、碧梧桐の電話に曰く子規君今朝痰切れず心細き故呼べとの事なり直ぐ来い、と。来て見れば昏睡中なり。碧梧桐の話に、ろくろく談話も出来ず、陸より使来りて余の来たりし時は、母君医者を呼びに行かれたる留守なりしが、「高浜もお呼びや」と一言いわれたるまま電話をかけたるなり。帰りて後自ら筆を採り、例の板に張りたる紙に

糸瓜咲て痰のつまりし佛かな
痰一斗糸瓜の水も間にあはず
をとヽひのへちまの水も取らざりき

という三句を認められたり。それより柳医来り痰の切れる薬をくれて帰りたる由。また柳医の話に、国許に親戚でもあるならば「病重し」という位の電報は打ち置く方宜しかるべしとの事なりし由なるも、碧梧桐と相談の上、嘗て加藤氏の話もありし事とて、今少し様子を見てからの事に決す。

○三並、鷹見に端書にて模様悪しき由報知す。
○秀眞来る。去る。
○鳥堂来る。去る。
○午後五時前目覚め苦痛甚だしき様子、モヒ頓服、なお安静を得ず。五時半宮本医来診、胸部に注射、それより再び昏睡。
○昨日は一度粥を食いたる由、その後はレモン水のほか殆ど飲用せず。本日は陸より貰いしおもゆ少しばかりのほか滋養物喉を通らず。
○夕刻おまきさん、加藤令閨来る。去る。

○午後六時過ぎ碧梧桐去る。「ホトトギス」の校正を了せんがため。
○午後七時過ぎ鼠骨来る。おしづさん来る。
○午後八時前目覚め、「牛乳を飲もうか」という。ゴム管にてコップに一杯を飲む。「だれだれが来てお居でるのぞな」と聞く。妹君、「寒川さんに清さんにお静さん」と答う。直ちにまた昏睡。
○大原恒徳氏に手紙を出す。(以上十八日夜虚子生記)
○鷹見令閨来る。
○母君に大原へ打電をいかがすべきか相談せしところ、昨日病人も「大原へは電報を打とうか」など申し居りたれば打ってくれとの事。直ちに「シキヤマイオモシ」と打電す。
○子規子熟睡の状なお続く。鷹見氏令閨と母君と枕頭に残り、余と妹君と臥す。
○時々常に聞き慣れたる子規君のウーンウーンという声を聞きつつうとうとと眠る。
○暫くして枕元騒がしく、妹君に呼び起さるるに驚き、目覚め見れば、母君は子規君の額に手を当て、「のぼさん、のぼさん」と連呼しつつあり。鷹見令閨も同じく「のぼさん、のぼさん」と呼びつつあり。余も如何の状に在るやを弁《わきま》えず同じく、「のぼさん、のぼさん」と連呼す。子規君はやや顔面を左に向けたるまま両手を腹部に載せ極めて安静の状にて熟睡すると異ならず。しかも手は既に冷えて冷たく、額また僅かに微温を存ずるのみ。時に十九日午前一時。
○妹君は直ちに陸氏に赴き電話にて医師に報ず。
○余は碧梧桐を呼ばんがため表に出ず。十七日の月には一点の翳も無く恐ろしきばかりに明かなり。碧梧桐を呼び起して帰り見れば陸翁枕頭に在り。母君、妹君、鷹見令閨、子規をうち囲みて坐す。
○本日医師来診の模様にては未だ今明日に迫りたる事とは覚えず、誰も斯く俄《にわか》に変事あらんとは思いよらざりし事とて、兼ねて覚悟の事ながらもうち騒ぎなげく。
○碧梧桐来る。本日校正の帰路、非常に遅くなり且つ医師の話になお四五日は大丈夫のよう申し居りし故、今夜病床に侍せず、甚だ残念なりとて悔やむ。
○母君の話に、蚊帳の外に在りて時々中を覗き見たるに別に異常なし。ただ余り静かなるままふと手を握り見たるに冷たきに驚き、額をおさえ見たれば同じくやや微温を感ずるばかりなりしに始めてうち驚きたるなりと。
○陸令閨来る。
○陸翁、碧梧桐と三人にて取敢えず左の事だけ極める。
 一、土葬の事    一、東京近郊に葬ること
 一、質素にする事  一、新聞には広告を出さぬ事
 一、国許の叔父上には打電して上京を止める事
○陸翁同令閨去る。
○碧梧桐と両人にて打電先、ハガキ通知先等調べる。
○夜明けば至急熊田へ行きホトトギスへ子規子逝去の広告を間に合わす事にする。
○陸氏令閨来る。おまきさん来る。
○おしづさん、茂枝さん来る。
○夜ほのぼのと明ける。


 (以上十九日朝虚子記)