立見尚文

坂の上の雲 > 登場人物 > 立見尚文【たつみなおふみ】

 

立見尚文 

出身地

桑名藩

生没年

1845年〜1907年

陸軍士官学校

陸軍大学校

日清戦争時

第十旅団長

日露戦争時

第八師団長

最終階級

陸軍大将

伝記、資料

「立見大将伝」(土屋新之助)

 幼少期は藩校立教館、江戸の昌平黌で学んだほか、新陰流の剣術、甲州流軍学にも入門。藩主が京都所司代に就任すると京都勤番となり、長州征伐では大目付の随員として従軍している。戊辰戦争が始まると雷神隊を組織し、土方歳三らと宇都宮城を落としたほか、長岡では山県有朋率いる奇兵隊を打ち破った。
 維新後は一時謹慎となるが、赦免後は安濃津県職員を経て司法省へ出仕し、各地の裁判所で勤務した。西南戦争が勃発すると軍籍に転じ、新撰旅団参謀副長として従軍その後は近衛歩兵第三連隊長などを務め、日清戦争では第十旅団長として平壌攻撃で勇名を馳せる。その後、陸大校長、台湾総督府軍務局長、台湾総督府参謀長などを歴任し、明治31年に新設の第八師団長に就任。日露戦争では第八師団を率いて黒溝台会戦に参戦し、ロシア軍の猛攻を食い止める活躍を見せた。戦後に数少ない佐幕派出身の陸軍大将となったが、まもなく死去。

立見の逸話(幕末)

猛牛を一刀両断

  15才の頃、立見は藩校に行く途中で藩の米倉が並ぶ芝倉というところを通った。ちょうど納米の時期であり、米を積んできた台車や牛馬などが所々につながれていた。そのうち一頭の大牛が何に驚いたか急に綱を切って猛然と走り出した。周囲の人々が驚き逃げまどう中、立見は自若として一刀抜き、猛牛を切り伏せてしまった。


龍馬の手録に感銘を受ける

 慶応二年一月の立見の日誌には、「二十六日 伏見において坂本辰馬の事あり」「二十七日 坂本龍馬の一件に付土州を訪ふ」と寺田屋事件が記されている。翌月、立見は現場に残されていた龍馬の手録を読んで感銘を受け、その全文を書き写そうとしたという。


長岡での活躍

 鳥羽伏見の戦いの後、立見は桑名藩士らと共に各地を転戦した。長岡では敵襲を受けた会津兵、長岡兵数百が敗走する中、立見は四十数名を率いて山腹に迫る敵軍に一斉射撃を敢行。そして混乱した敵中に突撃し、奇兵隊参謀の時山直八を戦死させ敵を撃退している。


立見の逸話(西南戦争〜日露戦争)

城山攻撃

 西南戦争では選抜攻撃隊の指揮官に任命され、城山正面の攻撃を担当した。奇襲攻撃などで政府軍の勝利に貢献した立見の活躍は知れ渡り、西郷、桐野ら薩軍を追いつめる政府軍兵士とそれを指揮する立見少佐の姿が当時の錦絵に描かれたほどであった。


伏見と立見

 連隊長時代、立見率いる第三連隊(東軍)と伏見宮率いる第四連隊(西軍)とで機動演習が行われた。演習前夜、立見は「してつ 又れば 東西の 東は晴れて 西は曇れり」という歌を伏見宮に送った。これを見た伏見宮は笑いながら「明日は油断するなよ」と部下に語った。


旅団長の昼寝

 日清戦争中、鳳凰城付近で敵軍と対峙した際には、馬上から部下に「この様子であれば敵の射程距離に入るまで二、三十分はあるだろう。その間に俺は寝る」と言い、近くの松の根元で昼寝を始めた。立見の昼寝は当時錦絵にも描かれている。


黒溝台での覚悟

 黒溝台会戦中、立見の司令部周辺でも砲弾が飛び交っていたため幕僚が司令部内に安全な避弾所を作った。しかし立見はそこには入らず、煙草を燻らせ「ずいぶんと砲弾がやってくるな」と言いながら屋外で指揮をとり続けていた。また、司令部で使っていた家屋の土間には大きな深い穴を掘らせ、「もし敵が来たら、俺は割腹して軍旗と共にこの穴に埋まる」と言いながらその前でウィスキーを飲んでいたという。


黒鳩が蜂にさされて

 戦後、 黒溝台会戦を回顧して次のような歌を作った。
 「黒鳩(クロパトキン)が 蜂(ハチと第八師団をかけている)にさされて 逃げ去れり 
                          もはや渾河(こんか=来んか)と 立ち見けるかな」