津野田是重

坂の上の雲 > 登場人物 > 津野田是重【つのだこれしげ】


出身地

熊本県

生没年

1873年〜1930年

陸軍士官学校

6期

陸軍大学校

14期

日清戦争時

近衛歩兵第一連隊付

日露戦争時

第三軍参謀

最終階級

陸軍少将

著書

「斜陽と鉄血」(津野田是重)
「軍服の聖者」(津野田是重)

 熊本の名門校「済々黌」を卒業後、陸軍士官学校へ入学。陸軍大学校卒業後に参謀本部出仕を経てフランスへ留学するが、明治37年に帰国命令を受け、第三軍参謀として出征した。旅順要塞陥落後は軍使としてステッセルとの交渉などを行った。その後、第三軍幕僚の大半が左遷される中で津野田だけは留任し、奉天会戦まで乃木の参謀を務めた。出征中は様々な失敗から参謀長らに叱られることも多かったが、英国観戦武官のハミルトン中将から「日本人には珍しく明朗な青年将校」と評されている。
 戦後は再びフランスへ留学し、帰国後は陸大教官、近衛歩兵第3連隊大隊長、奈良連隊区司令官、歩兵第11連隊長などを務めたが、その性格が災いし少将で予備役へ編入された。その後、衆議院議員に立候補して当選。政友会に属し、枢密院顧問も務めた。
 先祖は戦国武将 明智光秀。長男 忠重は作家。三男 知重は大本営参謀となり、太平洋戦争中に東條英機暗殺計画に関わっている。

旅順の木村長門守 (日露戦争実記より)

軍使 津野田

 参謀長以下が軍司令部に帰り着きしは、一月三日午前二時十五分でありましたが、我が司令官は遉(さすが)に乃木将軍その人だけありて、この時まで少しも眠らずして、整然椅子に凭(よ)って一同の帰りを待って居たのには、一同感服いたしました。司令官には一同の報告を受くるや、姿勢を正して始終聞かれて居たりしが、聞き終わって「御苦労でありました」と云われ、それよりさらに一同に向かい
「実は今日諸君の談判中に児玉参謀長より、開城提議のことを陛下の奏問為し奉りたるに、陛下は畏くも左の如き勅語を賜ったのである。ステッセル以下が祖国のために尽くしたる功労を充分に賞し、併せて彼がために武士の名誉を保つことを望む。云々という有難きお勅語である」
と。就いては早速この有難きお勅語をステッセルに伝えんければならぬのである。故に軍司令官は参謀少佐津野田是重君に向かい、
「津野田参謀は明日使者として旅順に赴き、ステッセルに面して正式的旅順城受け取りの儀を伝え、併せて我が陛下が御仁恵深きお勅語を彼に伝えられよ」と、厳かに命令されたのであります。ああ、この命令こそ参謀少佐津野田是重君が、旅順の木村長門守として嘖々(さくさく)人口に膾炙されつつある原因となったのでありまして、実に少佐の名誉でありまするが、さりながら名誉あるところまた従って苦心の相伴うものにして、サアこの最も名誉ある命令を受けたる津野田少佐の苦心は如何ばかりでありましょうか。なお敵中に如何なる野蛮極まる暴虎の勇者なしとは限らず、否必ず開城に反対する無謀血気の将校兵士も多くあるので、実に今城受け取りの儀を正式に伝えに行くは、殆ど火中に入るが如き危険を冒さなくてはなりません。そこで他の参謀も参謀長も、
「津野田君、名誉ある御命令を軍司令官閣下から受けられたので誠に結構なことであるが、しかし余程警戒を厳にして往かれないと、危険極まる。騎兵一個中隊位を護衛として付さしめて行くが宜しかろうと思うが」
と言われました。これは参謀長以下が津野田参謀の身を心痛せられたるに無理はありません。津野田参謀はこれを聞きてしばらく考えておりましたるが、軈(やがて)徐(おもむろ)に頭を擡(もた)げて莞爾と笑みつつ、
「参謀長殿始めご厚意は誠にかたじけなく存じますが、敵はなお一万以上居りまする所へ、一個中隊位連れて行きましたとて、もし敵にして暴行を恣(ほしいまま)にせんとせば、我はこれを如何とすることも出来ませんで、忽ち全滅してしまわなければなりません。寧ろ勇胆なる騎兵の下士一二名を随えて行くに越したことはありませんので、もし事破れなば潔く日本武士らしく死するまででありまする」
と、決心頗る面に現れ、断乎として云われました。乃木司令官これを聞いて、
「ムム、遉(さすが)に津野田、よく言うた、兵を率いずに行け、木村長門の轍を踏めッ」

※津野田の著書「斜陽と鉄血」では、このあたりの記述が少し異なっている。乃木自身から「護衛として歩兵一大隊または騎兵一中隊を同行させるべきか」と言われた津野田は、『衷心感謝の意を表したが、何分にも事重大であると私考したから即答を避け「御命令は正に拝承致しましたが、実行に就いては少しく熟慮の余地を与えられたし」と陳述して、一先ず将軍の居室を退出し、寒夜に脱帽して屋外を緩歩しつつ黙考した、約三十分の後将軍の居室に復し、心中に内定したる具体案を報告し、諸準備終わって一寸就床したが、固より妄想百出一睡の余地もなかった』とだけ回顧している。乃木の「木村長門の轍を踏め」という発言があったとも書かれてはいない。

※木村長門守とは、戦国時代末期の大坂の陣で活躍した木村重成である。冬の陣の講和交渉の際、木村は豊臣方の代表として家康の陣に赴いた。そこで家康から誓紙を受け取ったのだが、そこに押された血判が薄いことを咎め、「年寄りだから血が薄い」と言い訳をする家康に再度血判を押させた。若い木村が怯むことなく血判を要求した度胸に、諸将は感嘆したという。このエピソードは「木村長門守 血判取」という歌舞伎の演目にもなっているが、後世の創作であるともいわれている。その後、木村は大阪夏の陣で井伊軍と激戦の末に戦死する。享年23。家康が木村の首実験をした際、髪に焚きこまれた香の薫りが漂ったため、その嗜みに深く感心したとも言われている。



ステッセル夫妻の前で大失態

 一月三日の早天に騎兵下士僅かに二名を後ろに従えるのみにて、軍司令部を出発なしたり。行く行く水師営の村落をも打ち通りて馬を進むるほどに、ハヤ敵線に近付きたれば、少佐は毫も油断なく後へに従う二騎の下士もまた前後左右に警戒しつつ午前八時に垂(なんな)んとする頃、敵の前哨戦にと着したのであります。津野田参謀は用意の白旗を押し立てさせつつ、馬上大声に呼んで曰く「余は日本軍司令官の命を受けて来れる参謀官なり。露軍司令官に面会して日本司令官の意を演(の)べんとす。依って、速やかに通行を許されよ」と呼ばわりたるに、歩哨何の故障もなく、丁寧に一礼して参謀の一行を通行せしめました。参謀始め二名の騎兵下士も漸く安堵の思いを為しつつ、次第次第に進み行きたるに、ハヤ万歳を叫ぶ露兵もあります。参謀は馬をとどめて兵士に向かい「ステッセル将軍の邸は何処なるぞ」と問いたるに、彼は丁寧に教えたるゆえ、参謀は直ちに馬を進めて程なくステッセル将軍の邸の門前に到着したのは午前十時の頃でありました。
 参謀は自ら馬を進めて門を叩きたるに、直ちに応えて内より一人の兵卒は出で来たれり。参謀を見て恭しく一礼し、来意を問うゆえに参謀は一葉の名刺を出して曰く「我は日本軍司令官の命により日本皇帝陛下の勅命を伝え、併せて日本軍司令官の意をも伝えんが為に来たれり。ステッセル将軍に取次を頼み入る」と。兵卒了承して奥に入りたるが、間もなく本門を十字に開きて案内なしました。津野田参謀は馬を門内まぶ進めて、玄関前まで至りて初めて馬上を下りますると、一人の下士官が出で来りまして、恭しく一礼為し、玄関の扉を開いて案内します。津野田参謀満面の笑みを漏らしつつ、彼の兵士に導かれて内に入れば、なお二番目の扉ありて、これは年齢五十位の人が出で来りて開きました。津野田少佐はこれを見て心の中に、この人は無論召使などではなし、たぶん副官か何かであろうと思いつつ内に入りしに、なお三番目の扉をもこの人開いて案内致しましたから、参謀はいよいよ副官に違いなしと思っていたるに、左手の応接の間とも云うべき所に導き入れたのであります。そこで津野田参謀はかの人に向かい仏語を以て「貴方は仏蘭西語はお出来ですか」と問うと、彼は手真似にて答えて言うに「耳には分かりますが口には言えません」と述べたので、津野田参謀は「英語は」と聞くと「全然分かりません」と答えたのであります。参謀は重ねて「ステッセル将軍にお目にかかりたいから取り次いで下さい」と仏語にて言うと、彼の人は初めて莞爾笑って「私がステッセルです」と答えたので、流石の津野田参謀も実に一驚を喫したのであります。津野田参謀は副官と思いし人の、自ら吾こそステッセルなりと言いしを以て驚きつつ、立ちて敬礼を為し「閣下とは少しも存じませず、誠に失礼致しました。どうぞお許しを願い上げます」と謝しますと、ステッセルは大いに笑いつつ「イヤ決して御介意には及びませぬ」と言う所へ、漸く副官が出て参りましたが、この人は仏語が巧みに操れますので、津野田参謀は自由に話が出来ます。依って改めて失礼したる詫びを為し、それから徐に我が陛下の勅語を伝えて言うに、ステッセルは我が皇帝陛下の御仁恵に感じて落涙したのであります。

 それより暫く雑談に移りて居ります所へ、年齢四十位の一人の婦人が入り来りまして、茶を差し出しましたから、津野田参謀は下女にやあらんと思いつつ、取ってこれを飲みロクロク挨拶も為さず居たるに、側に在りたる副官が「津野田さん、そのお方がステッセル閣下の夫人であります」と言われたので、津野田参謀もいよいよ驚き、これはまたしくじったと思いながら、立ちて敬礼を為し「イヤ誠にどうも失礼致しました。私は閣下の御夫人とは存じませんで・・・、閣下に対してと云い御夫人に対してと云い、重ね重ねの失礼、恐れ入りまして御座います」と流石の津野田参謀官も、些しく赤面して謝しますると、ステッセル将軍も夫人も副官も、皆大いに笑います。夫人はややありまして、「いえもうそれは御もっともであります。私もこの春以来、看護やらその他の事にて夜の眼のロクロク寝ませぬゆえ、やつれてしまって居りまするし、籠城以来髪結い化粧も遂ぞ致したこともありませんので、まるでもう下女同様、召使い女とでもお見做し遊ばすは、当たり前で御座います。オホホホ」と言われるので、津野田参謀はますます恐縮いたしました。

※この失態はイアン・ハミルトンの著書「思ひ出の日露戦争」にも記されている。津野田の著書「斜陽と鉄血」の中では『午前五時従者として騎兵二名を伴うて、軍司令部を出たが途中幾多の滑稽を演じつつ午前十時三十分頃漸くステッセル将軍の官邸に到着し、更に喜劇の一幕を演じ終わって、漸くステッセル将軍に対面する事を得た』『之より雑談に入り、種々問答を重ねたが、ステッセル夫人に対し、大失態を再演したる後、午餐の饗を受けて午後一時三十分頃辞去した』と書かれているだけで、具体的な失敗内容については触れられていない。終戦後すぐに大衆紙で失敗談を暴露されてしまっただけでなく、外国人にも知れ渡ってしまったので、今さら詳述する必要も無いと思ったのかもしれない。



津野田失策集

同僚の前で失言

 日露戦争で参謀として旅順へ出征したとき、日清戦争で同じ配属だった第一線の大隊長(志岐守治)に対し、「今度も馬鹿死にせんでもいいなぁ」と放言して相手を怒らせてしまった。しかし、後に戦線を視察して死傷者を目の当たりにした津野田は、自分が無傷であることに罪悪感を感じたと書き残している。


馬鹿鳥に馬鹿にされる

 日露戦争中、海岸で「馬鹿鳥」と呼ばれる白鳥数群を見つけた津野田は、乃木からピストルを借りて数発発砲した。しかし鳥には一発も中たらず、同僚から「馬鹿鳥に馬鹿にされた」と冷やかされてしまった。


乃木を追い返す

 津野田が同僚の白井と議論をしていると、時々そこに乃木が加わることがあった。しかし、これによって事務の進捗に支障をきたすこともあったので、ある日、津野田は乃木に対して率直に意見を述べ、今後は細務に関与しないようにと伝えた。するとこの様子を見ていた伊地知から「軍紀違反だ!」と怒られ、内地へ送り返されそうになってしまった。結局、大庭の仲裁で何とか許された津野田が乃木に謝りに行くと、「君の直情径行(自分の感情のままを言動に表すこと)は悪いことではないし、自分も全く気にしていないが、今後は人を見て物を言わなければかえって損をするぞ」と笑顔で諭されたという。後に自らの言動が災いして少将で退役することになってしまった津野田は「今日の境遇に照らして真に感慨無量である」とこの時の乃木の訓戒を回顧している。


要注意人物 津野田

 旅順陥落後、新たに参謀長に就任した松永の歓迎会が行われた。歓迎会終了後、津野田はさっそく新しい上司に呼び出された。「今夜の歓迎会で外套を着ていたのはお前だけだった。お前が生意気だということは聞いているから、今後も注意しなければならん」。


丸山が捕まった原因は・・・

 奉天会戦中に伝騎二名を従えて戦況視察に向かった津野田は、途中で包道屯という部落に立ち寄った。彼は日本軍がすでにここを攻略したと思っていたのだが、実はまだロシア軍の支配下にあった。そのことに気付かなかった津野田はここで報告書を書き、丸山という伝騎に司令部へ届けるように命じた。そしてその後ろ姿を見送っていると、丸山は部落を出る直前にロシア兵に捕らえられてしまった。やっと敵に囲まれていることに気付いた津野田は、もう一人の伝騎とともに必死に脱出した。このとき、彼の左腕を一発の銃弾がかすめていったという。やっとのことで友軍に合流すると、そこの指揮官から「どうしてあの部落に入ったんですか・・・。それにしてもよく逃げてこれましたね。もう少し遅れていたら、あなたは我々に撃たれていましたよ」と呆れられてしまった。
 その後、捕らわれた丸山はロシア軍の尋問に対して「将軍の行動と幕僚の執務一般の状況について」という学術論文のような答弁をやってのけ、ヨーロッパの兵学界を驚かせた(→「坂の上の雲」7巻、127〜128ページ)。さらにこの尋問中、丸山の同行者であった津野田がステッセルとの折衝を担当した将校であったことを知ったロシア士官は「その男を逃がしたのは残念だった」と言ったという。戦後、津野田は軍事裁判にかけられた丸山をかばい、「罪は丸山には無く、命令を出した自分にある」と弁護しただけでなく、丸山に叙勲を与えるように進言している。


敵参謀を生け捕りにする

 丸山を捕虜にされてしまった失態から数日後、再び伝騎二名を従えて視察に向かった津野田は夜道で三名の騎兵と遭遇した。暗夜で敵か味方か分からなかったので懐中電灯で照らしてみたところ、何とその騎兵は敵の参謀とその部下であった。津野田はすぐに抜刀して敵の喉元に突きつけ、下馬を命じて3人を捕虜にした。


乃木がぼやく

 昌図で対陣中、津野田はスパイ活動を行っていた某国宣教師を捕らえた。そしてその宣教師を処刑すると言い出したのだが、乃木や一戸からなだめられて、津野田はこの宣教師を乃木の恩赦という形で釈放することで妥協した。この後、乃木は「津野田は乱暴すぎるて困る」とぼやいていたという。


飲みすぎて検疫に遅刻

 明治三十九年一月、第三軍司令部は帰国の途についた。到着前夜、船内の自室で寝ようとしていた津野田を起こす者があった。暗くて誰か分からず「いま寝たばかりじゃないか」と怒鳴ると、「まあそう言うな。ちょっと起きろ」と乃木の返事がかえってきたため、あわてて点灯し失礼を詫びた。乃木は「今し方がた下関で御馳走を貰ったからもう一度飲もう。食堂に来い」と言い、同じ部屋にいた安原少佐も誘って午前二時頃まで3人で酒を飲んだ。
 翌朝9時、津野田らが目を覚ますと船内には誰もいない。船窓から顔を出すとそれを見つけた事務員が驚き、「今頃何をしているんですか?皆様はとっくにご上陸になりました」と言う。二人は急いで検疫所に向かったが、所長に臨時検疫に応じてもらえず、結局午後の部にまわされてしまったため桟橋についたのは午後2時。すでに歓迎式典も終わり、会場には残物が散乱しているだけで人影は無かった。その後、人力車で宿舎に着いた二人は一戸参謀長に怒られた後で乃木のもとに謝罪に行った。乃木が笑いながら「お前等は本当に眠っていて我々が上陸したのを知らなかったのか」と聞くので「そうです。何も好んで船に残る必要はないですから・・・」と津野田が正直に答えると、「それならよろしい」と一言で許されたという。


津野田失策集

 津野田は著作「軍服の聖者」の序文には「ある人は『津野田失策集』と名付けては如何と云われた」と書かれている。さらに続けて、このような失敗談を敢えて書いた理由として、「この失策の大部は、決して予が自発的に作為したものでなく、将軍を背景として演出したものであるから、厚かましくも詳記することにした」と述べている。


戦後の津野田

予備役編入の原因

 「斜陽と鉄血」の序文では、少将で予備役に編入されたのは自分の性格が災いしたからだと反省しているが、彼の長男忠重は著書「わが東条英機暗殺計画」で、是重の予備役編入は上原勇作との確執が原因だったらしいと書いている。さらに「幼少より兵事に志し、軍人に出発して不幸武職を全うすることが出来なかった。如何に運命とは云え残念至極である」とも述べている。


関東大震災についての発言

 関東大震災後の朝鮮人虐殺事件などについて、当時国会議員であった津野田は新聞記者に対して次のように答えている。(大正12年10月22日の読売新聞に記事があり、その要約)。
「今回の様々な事件については、どう考えても陸軍戒厳部の越権に思える。大体、戒厳令というものは戦時の場合と国内の非常時の場合の二通りがあり、今度の震災は後者の方法で施行しなければならなかったはずだ。しかし、当局は敵が国内に侵入したかのようなやりかたをしたように思う。
 私の自宅付近もあまりにも騒がしかったので、門の外へ出てみたところ、武装した兵隊がいた。そして隊長らしい人物が「敵は今〜方面に現れた」などと命令していたので、私はその将校に「敵は何か?」と質問したところ、「朝鮮人だ」と答えた。私はさらに、『朝鮮人がなぜ敵なのか』と聞くと、『上官の命令だから知らない』と答えた。もちろん、当時は色々な事情もあり、虐殺された朝鮮人の中にも怪しい行動をした者がいたであろうが、国民としてはこれらのことに対して十分調査する必要がある。自分も調査をしているが、種々の風説を生んでいる。いずれは議会で問題となるだろう」


津野田家の人々

先祖は明智光秀

 軍使として旅順に赴いた津野田の様子を記した「日露戦争実記」の記事「旅順の木村長門守」では、津野田家の由来を次のように紹介している。

「津野田参謀は明智光秀の後胤です。光秀の三男乙寿丸の生きて居るのを加藤清正が聞き知りて密かに肥後に呼んだのであるが、明智の後裔が何故津野田と名乗るかと云うと、その当時豊臣家を憚りて、明智姓は無論名乗れぬ。そこでしばらく世を忍んで居た津の国(摂津。今の大阪北部〜神戸周辺)の野田の里の名を取りて、津野田としたので、名乗りは代々必ず是と付けます。(中略)何故代々是という文字を名に付すかと云うに、祖先明智光秀が主君を弑て逆なること非なることをして居るゆえ、その子孫は必ずこれに反して是(ぜ)なることを為さんと云う心にて、是という文字を名に付すを家例として居ることは何と諸君面白いではありませんか」

 ただし、加藤清正がわざわざ明智光秀の子孫を匿う理由も特にないため、加藤家改易後に肥後に入った細川家(当主忠利の母は光秀の娘 細川ガラシャ)に庇護された可能性もある。
 この文中にあるように津野田家は代々”是”を名乗ってきたが、是重は乃木から貰った「忠孝知」の書から一字ずつ取り、三人の息子を忠重、孝重、知重と名づけている。


津野田家と吉田茂

 津野田の妻は結婚前に吉田茂と見合いをしたことがあった。しかし、「世辞にも美男でスマートとはいえない」ため内心落胆し、さり気なく断わったという。後年、吉田が自分と同じく憲兵隊に捕まった知重に対し「君は、わしの後輩だな」と言ったところ、知重は「冗談じゃありません。私の方が放り込まれたのも先、釈放されずにいた期間も遙かに長いですよ」 と言い返した。

 ※参考文献 「わが東条英機暗殺計画」 : 知重の兄忠重の著作。現在は絶版。

東條英機暗殺計画

 津野田是重の三男 知重は、父の死をきっかけに軍人になることを決意する。これに反対した母親が是重の部下であった山下奉文に相談したのだが、山下は知重の心意気に感動して陸軍幼年学校入学を後押ししたので、かえって逆効果になってしまった。
 その後、陸軍大学に進学した知重は2番の成績で卒業。1番になれなかったのは父親譲りの性格が原因だったらしい。そしてやはり父親に似て多少不作法な知重は、軍の宴会で上司の武藤章 と口論をしたことがあった。その時に武藤は「閣下、コイツは父親も生意気だったそうですが、本当に生意気な奴ですな」と近くにいた東條英機に訴えたのだが、「そういうことを言うな。津野田の親父さんは俺が陸大にいたときの教官だ。それに、津野田の言うことも一理ある」と諭されてしまった。そして東條は知重に対してこう語った。「津野田、俺は陸大の教官の中でお前の親父さんが一番好きだった。いい教官だったぞ」。
 それから数年後の太平洋戦争中、関東軍の参謀を務めていた知重は東條の命で帰国して大本営の参謀となった。大本営勤務で戦況の実状を知った知重は、東條内閣の方針に疑問を感じて同志と共に東條の暗殺を企てるようになる(この計画には石原莞爾も関わっていたという)。しかし、実行直前に東條内閣が総辞職して未遂に終わり、後に計画が発覚して知重は逮捕・免官となった。そして終戦後は実業界で活躍し、東京12チャンネル(現在のテレビ東京)の設立に尽力した。

 ※参考文献 「わが東条英機暗殺計画」


 山下奉文 : 太平洋戦争でシンガポール攻略戦を指揮し、「マレーの虎」と呼ばれた人物。BC級戦犯として刑死。
 武藤章 : 開戦時の軍務局長で、後に山下の参謀長を務めた。戦後A級戦犯として刑死。是重と同じ済々黌出身。
 石原莞爾 : 関東軍参謀として満州事変を主導し、満州国建国を推進。後に東條と対立して予備役へ編入された。