本郷房太郎

坂の上の雲 > 登場人物 > 本郷房太郎【ほんごうふさたろう】


出身地

篠山藩

生没年

1860年〜1931年

陸軍士官学校

旧3期

陸軍大学校

日清戦争時

留守第4師団参謀

日露戦争時

歩兵第四十二連隊長

最終階級

陸軍大将

資料

「陸軍大将本郷房太郎伝」
 (本郷大将記念事業期成会編)

 旧藩主 青山忠誠と共に陸軍士官学校へ進む養育生として抜擢され上京。陸軍士官学校卒業後は、士官学校教官、留守第4師団参謀などを務めた。明治37年に日露戦争が勃発すると第五師団歩兵第四十二連隊長として出征したが、遼陽会戦後に陸軍省の高級副官に任じられ帰国している。
 記憶力の良い人物であり、戦後は陸軍省人事局長、教育総監部本部長、陸軍次官など軍政畑で能力を発揮して寺内正毅に重用された。その後は再び部隊指揮に戻り、第17師団長、第1師団長、青島守備軍司令官、軍事参議官を歴任し、陸軍大将に昇進。退役後は大日本武徳会長などを務めた。
 士官学校の同期生 秋山好古との交友は終生続き、好古の最後も看取っている。


本郷のエピソード

銅像不要論者

 本郷は常々「国家に功労無き者に建ててはならぬ。誰も彼も建てるというなら、むしろ海岸に並べて国防の一端とし、銅像税を課して国庫の財源とするのがよいだろう」と語っていた。彼の死後、有志が資金を募って彼の銅像を建てようとしたが、「故人の遺志に反する」と遺族から断られたために実現しなかった。そこで、集まった資金で銅像の代わりに「本郷図書館」が建てられ、現在も彼の故郷である篠山市で市民に利用されている。


前線でも泰然自若

 白川義則の大隊が得利寺で敵軍と交戦しているとき、本郷が率いる歩兵第四十二連隊が増援としてかけつけた。敵弾が飛び交う中、白川らが馬から下りているにも関わらず、本郷は平然と馬上で指揮を執っていた。「弾丸が飛んできますから馬上では危ない。馬から下りて下さい」そう白川が進言したのだが、本郷は「なに、かまうことはない。馬でやっつけるんだ。それに吾輩は肥えているから徒歩では困るんだよ」と笑いながら指揮を執り続けた。後に白川に対し、「あのときは高地から射撃している敵の死角だったから危なくなかったんだ」と説明した。しかし、別の人に対しては、「あの時に自分が無理な前進をして隊にたくさんの負傷者を出したのは申し訳なかった」とも言っていたという。


類稀な記憶力

 本郷は同級生から「生き字引」と呼ばれるほど記憶力の良い人物だった。士官学校勤務時代は生徒や部下の出身地、成績、家族関係、長所などをほとんど記憶していた。陸軍省勤務時代は同じく記憶力の良い寺内陸相と意見が異なるときも、普通の人であれば手帳を見なければ即答できないような情報などを一々例に挙げて自信を持って論じたので、寺内からは非常に信頼されていた。また、本郷は寺内に強行意見を主張できる数少ない人物でもあった。
 本郷が教育総監部本部長だったころ(50歳頃)、松本の連隊の教育視察を行い、浅間の温泉宿に泊った。この時、本郷は随行していた永田鉄山に、「この浅間には某氏がいるはずだ。一緒に食事をしたいから呼んでくれ」と頼んだ。永田が宿の主人に尋ねると確かにその人物は実在し、本郷との再開を非常に喜んだ。数日後にその人物について永田が尋ねると、「自分が小隊長をしていた頃(20代前半)の部下だ。親が危篤になって帰郷させたという記憶がある」と本郷が答えた。
 また、本郷はこの数日後に豊橋で同僚と会席し、料亭の女将に対して「どうもお前には見覚えがある」と、また小隊長時代の記憶をもとに話しかけた。女将は「まさか・・・」と半信半疑であったが、本郷が「確かお前の腕にはあざがあるはずだ」というと、実際にそのとおりだったので、同席していた同僚たちも驚いたという。 後に永田は、「本郷さんが人事局長となったのは適材適所だった」と回顧している。


鈴木貫太郎の本郷評

 鈴木貫太郎がまだ少尉候補生だった頃、弟孝雄(後に陸軍大将)の陸軍士官学校入学手続きについて同郷の東騎兵大尉に尋ねることにした。しかし、東の家は本郷の家と同じ1つの門の内側にあったので、貫太郎は間違えて本郷の家を訪ねてしまった。同郷とはいっても東と面識の無かった貫太郎は人違いであることに気づかずに質問し、一方の本郷は初対面であるにも関わらず丁寧に入学手続きなどを説明した。その後、郷里の話になったところでようやく人違いであることに気づいたのだが、これがきっかけとなって二人は懇意になった。後に貫太郎は、「初対面における態度やお話が懇切丁寧であったので、将来立派になる人だと感じた」と語っている。


本郷のニックネーム

 「坂の上の雲」で本郷は「桃太郎のような顔」と描かれているが、士官学校時代の写真を見ると面長でそれほど太っていない。晩年はかなり太っている。ちなみに士官学校時代と卒業後の教官時代、本郷のニックネームは「坊ちゃん」「オットセイ」だった。


明治陸軍の一卓材

 明治四十四年に鵜崎鷺城が記した「薩の海軍、長の陸軍」では、「山田忠三郎の前に人事局長たりしが将士の身分進退に関する措置極めて公平無私にして且つ採決流るるが如し。寺内彼を信頼する尋常ならざるもこれが為めに長閥の与党とならず常に中立を守るが故に正義派と称せらる。質性括澹にして謹直、酒を愛するも未だ嘗て声色の遊を試みず明治陸軍の一卓材たり。」と評されている。