「坂の上の雲」登場人物
五十音順一覧表 【あ】

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相羽恒三【あいばつねぞう】


出身地

岩手県

海軍兵学校

20期

生没年

生年不詳〜1918年

海軍大学校

最終階級

海軍大佐

日露戦争時

漣艦長


 日清戦争では少尉候補生として、北清事変では浅間乗員として従軍。日露戦争では駆逐艦「漣」の艦長となり、日本海海戦に参戦した。海戦の終盤でバルチック艦隊司令官のロジェストウェンスキー中将を捕虜とする武功を挙げた。
(大正期の人物物故辞典などで没年は分かっているが、なぜか享年、生年は書かれていないため生年不詳である。資料も無いので日露戦争後の経歴も不明)

滑稽家から寡黙に

 盛岡中学時代の同級生は「日露戦争実記」の取材に対し、「相羽君は実に愉快な男で、滑稽家でしたよ。中々の多弁で、黙っているのは授業中と寝た間位のものです。(中略)それが変われば変わるもので、中学を廃して兵学校に入ってから性行と骨格ががらりと変わって、多弁は寡黙、軽快は真摯、泰山崩れるも動ぜず、といいそうな性行になったのです」と語った。



青山忠誠【あおやまただしげ】

 1859年〜1887年。丹波篠山藩藩主。篠山の子弟教育のため、福沢諭吉に相談し明治9年に篠山中年学舎を創設。自らは陸軍幼年学校、陸軍士官学校(旧3期)を経て数少ない華族出身将校となるが、明治20年に29歳の若さで亡くなった。




明石元二郎【あかしもとじろう】


出身地

福岡藩

陸軍士官学校

旧6期

生没年

1864年〜1919年

陸軍大学校

5期

最終階級

陸軍大将

日露戦争時

ロシア公使館付武官


 大阪の陣で活躍した戦国武将 明石全登の末裔と言われている。陸軍士官学校、陸軍大学校卒業後、ドイツへ留学。日清戦争では近衛師団参謀として出征した。その後、参謀本部部員、フランス公使館付武官を経て明治35年にロシア公使館付武官となる。そして日露戦争開戦と同時にストックホルムへ拠点を移し、諜報活動や攪乱工作を担当。その活躍ぶりは後に「10個師団に相当する」と評された。
 韓国併合後の明治43年、韓国駐剳憲兵隊司令官に就任すると独立運動を取り締まる立場となり、武断政治を断行した。一方、大正7年に台湾総督に就任後は、電力事業の推進や、日本人と台湾人との教育格差を無くす法改正を行うなど台湾統治に尽力した。在職中に亡くなり、その遺骨は遺言により現在も台湾に埋葬されている。

詳細情報

 明石のエピソード、関連資料などについては個別ページ「明石元二郎」に掲載。



秋山貞【あきやまさだ】


 秋山兄弟の母。松山藩士 山口久度の二女。弘化5年(1848年)に秋山久敬と結婚。若い頃から一人で万事を切りまわすだけでなく、子供達には自ら四書五経の素読を授けるなど、近所でも評判の賢夫人、賢母であったという。晩年は好古のもとで過ごし、明治38年に習志野で亡くなった。

詳細情報

 貞のエピソードについては個別ページ「父 久敬と母 お貞」に掲載。



秋山季子【あきやますえこ】


 宮内省の書画鑑定士 稲生真履の三女、秋山真之の妻。八代六太郎の橋渡しで明治36年に真之と結婚。その際、お貞からは「私の大切な真之をお前さんに差し上げるのだから」と厳粛な態度で言われたという。真之の死後は好古の庇護を受けながら5人の子供を育て上げた。




秋山真之【あきやまさねゆき】


出身地

松山藩

海軍兵学校

17期

生没年

1868年〜1918年

海軍大学校

最終階級

海軍中将

日露戦争時

第一艦隊参謀


 16歳の時に中学を中退、上京して友人の正岡子規と共に東京大学予備門で学ぶ。その後、兄 秋山好古の勧めで海軍兵学校に入学し、首席で卒業する。明治27年、筑紫の分隊士として日清戦争に従軍した。
 明治30年、米国留学を命じられ、マハンから海軍戦術を学ぶとともに米西戦争を視察。帰国後は海軍大学校の戦術教官となり、兵棋演習を取り入れるなど体系的な海軍戦術教育を行っていった。
 明治36年には常備艦隊参謀となり、翌年勃発した日露戦争では東郷平八郎のもとで連合艦隊の作戦立案で中心的な役割を果たす。そして明治38年5月27日、日本海海戦でロシアのバルチック艦隊を破り日露戦争の勝利に貢献した。海戦前に発せられた有名な電文「本日天気晴朗なれども波高し」の起草者でもある。
 戦後は海大教官、三笠副長、音羽艦長などを歴任したほか、軍務局長としてシーメンス事件の処理に当たった。その後も活躍を期待されたていが、51歳の若さで病没した。

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 真之のエピソード、写真、年譜、関連資料などは個別ページ「秋山真之」に掲載。



秋山多美【あきやまたみ】


 旗本 佐久間正節の長女、秋山好古の妻。士官学校時代に下宿していた好古とは明治26年に結婚。結婚生活の半分以上不在で万事無頓着な好古に代わり、家政の整理や子供の教育、各方面の交際など、内外に亘り家庭を支え続けた。姑自慢の嫁であったという。




秋山久敬【あきやまひさたか】


 秋山兄弟の父。松山藩士 秋山久徴の長男。親族間の争いを手際よく調停しするなど、寛容で衆望の厚い人物であり、後に藩の徒歩目付に抜擢された。また、漢学に長じており、維新後は県の学務係に採用された。晩年は剃髪して八十九(やそく)、天然坊と称し、明治23年に没した。

詳細情報

 久敬のエピソードについては個別ページ「父 久敬と母 お貞」に掲載。



秋山大【あきやまひろし】


 秋山真之の長男。日露戦争終結後の明治39年に生まれ、父の影響で宗教研究の道に進む。後に曹洞宗大学で学び、大倉精神文化研究所の研究部員となる。著書に「現世信仰の表現としての薬師造像」、「古代発見」などがある。「古代発見」には僅か9ページではあるが、父 真之に関するエピソードも収録されている。




秋谷好古【あきやまよしふる】


出身地

松山藩

陸軍士官学校

旧3期

生没年

1859年〜1930年

陸軍大学校

1期

最終階級

陸軍大将

日露戦争時

騎兵第一旅団長


 家計を助けるために官費で学べる師範学校を卒業し教員となるが、陸軍士官学校、陸軍大学校を経て軍人となる。明治20年から4年間、旧藩主と共にフランスに留学し、サンシール陸軍士官学校で学んだ。
 明治27年、騎兵第一大隊長として日清戦争に従軍。帰国後は乗馬学校長、騎兵実施校長として創成期の日本騎兵育成で中心的な役割を担っていく。明治33年、北清事変が起こると第五師団兵站監として出征し、その後は清国駐屯軍司令官として現地の治安維持や袁世凱との交渉を担当した。
 明治37年、日露戦争が勃発すると日本騎兵を率いてロシアのコサック騎兵と死闘を繰り広げる。ロシア軍10万を迎え撃った黒溝台会戦に於いては、他の部隊に先駆けて配備した機関銃を駆使して日本軍を崩壊の危機から救った。また、騎兵による敵情偵察や挺進行動を行い、日本陸軍の勝利に大きく貢献している。
 戦後は騎兵監、朝鮮駐箚軍司令官、教育総監などを歴任し、陸軍大将にまで登りつめる。しかし名利に拘ることなく、退役後は郷里松山の中学校長として余生を過ごした。

詳細情報

 好古のエピソード、写真、年譜、関連資料などは個別ページ「秋山好古」に掲載。



 

安保清種【あぼきよかず】


出身地

佐賀藩

海軍兵学校

18期

生没年

1870年〜1948年

海軍大学校

最終階級

海軍大将

日露戦争時

三笠砲術長


 佐賀中学校、攻玉社を経て海軍兵学校に入学。卒業ごは各艦の分隊士、航海士、砲術練習所学生、砲術長などの海上勤務を経て、八雲砲術長として日露戦争に従軍。明治38年2月から三笠砲術長となり、日本海海戦では艦隊射撃を指揮。その際、水兵たちがロシア軍艦の名前を覚えやすいように「蟻寄る」、「呆れ三太」「国親父座ろう」などの仮名をつける工夫をした。
 戦後は主に軍政面で重用され、軍令部次長、国際連盟海軍代表、海軍次官、ロンドン会議全権顧問などを歴任。昭和4年には濱口雄幸内閣の海軍大臣を務めている。

敵艦のあだ名

 昭和10年の座談会では、「クニヤージ・スワロフが「くにおやじすわろう(故郷親父座ろう)」、アレキサンドル三世が「あきれさんた(呆れ三太)」、ボロヂノが「ぼろでろ(襤褸出ろ)」、アリョールが「ありよる(蟻寄る)」、シソイ・ベリーキが「うすいぶりき(薄いブリキ)」、オスラビヤが「おすとぴしゃ(押すとピシャ)」、アブラキシンが「あぶらふきん(油布巾)」、ドミトリ・ドンスコイが「ごみとりごんすけ(芥取権助)」、イズムルードが「みずもるぞ(水漏るぞ)」などと当時敵艦に付けた仮名を紹介し、「これが実際にもなかなか有効であったのは今考えても会心の至りである」と誇らしげに語った。
 この年は日露戦争30周年で、東京日日新聞と大阪毎日新聞が共催した「日露大海戦を語る」、朝日新聞主催の「日露大戦秘史 海戦編」の二つの座談会があったのだが、安保はその両方でほとんど同じことを語っている。



有馬良橘【ありまりょうきつ】


出身地

紀州藩

海軍兵学校

12期

生没年

1861年〜1944年

海軍大学校

最終階級

海軍大将

日露戦争時

 第一艦隊参謀
 音羽艦長


 尋常小学校卒業後、同志社英学校、慶応三田英学校を経て海軍兵学校へ入学。日清戦争では浪速の航海長として高陞号事件にも関わった。日露戦争では第一艦隊参謀として旅順口閉塞作戦などを立案。第一次閉塞作戦では天津丸指揮官として自ら作戦に参加した。その後は一時大本営付きとなるが、音羽艦長として黄海海戦、日本海海戦に参加した。
 戦後は海軍兵学校校長、第一艦隊司令長官、シーメンス事件査問委員などを歴任。東郷平八郎の葬儀委員長も務めている。

閉塞作戦を語らず

 閉塞作戦の中心人物であった有馬は、戦後もこの作戦についてはほとんど語ることがなかった。昭和10年に新聞社主催で行われた座談会にも出席はしたが、閉塞戦の話題になると「有馬さんは言いにくいだろうから・・・・」と小笠原や山路など他の者が代わりに語っている。
 この座談会において、森山慶三郎は「その時は広瀬君は閉塞に反対だったと聞いた。しかし有馬さんが来て、指揮官になってくれと言うから、自分は反対だけれど「士は己を知る者の為に死す」という意気で引き受けたんだと、斯様に聞いております」と語ったが、これに対して有馬は「広瀬君には私から話しました」と言っただけで、この件についても詳細は語らなかった。