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       出身地  | 
      
       陸軍士官学校  | 
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       生没年  | 
      
       1864年〜1935年  | 
      
       陸軍大学校  | 
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       最終階級  | 
      
       日露戦争時  | 
      
       第三軍参謀副長  | 
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 1818年〜1875年。名は有恒。正岡子規・律の外祖父で、正岡八重・加藤恒忠の父。藩の御船手
加藤重孝の三男で、大原家に嫁いだ姉の養子となった。松山で漢学を学んだ後に江戸に上り、昌平校では舎長に補される。帰郷後は藩校明教館の教授を務めたほか、藩主松平定昭の側近として佐幕藩の侵攻で混乱する藩内の調整に尽力した。孫である子規の才を愛し、小学校にあがるまでは自ら漢学の素読を教えていた。
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       出身地  | 
      
       陸軍士官学校  | 
      
       −  | 
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       生没年  | 
      
       1842年〜1916年  | 
      
       陸軍大学校  | 
      
       −  | 
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       最終階級  | 
      
       日露戦争時  | 
      
       満州軍総司令官  | 
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 詳細情報大山のエピソードは個別ページ「大山巌」に掲載。 | 
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 1829年〜1868年。土佐藩士。鳥羽伏見の戦い後、藩兵を率いて松山藩征討を指揮し、これを恭順させる。その後も政府軍諸道軍監として上野戦争、東北戦争で戦功を立てたが、会津若松城攻撃の陣頭指揮中に敵弾を受けて戦死した。
 「竜馬がゆく」では、三巻で山地忠七(元治)らと共に長州の周布政之助を切りに行こうとするシーンで登場。七巻では会津で戦った時の様子が描かれている。
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       出身地  | 
      
       海軍兵学校  | 
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       生没年  | 
      
       1867年〜1958年  | 
      
       海軍大学校  | 
      
       −  | 
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       最終階級  | 
      
       日露戦争時  | 
      
       軍令部参謀  | 
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       出身地  | 
      
       陸軍士官学校  | 
      
       兵学寮  | 
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       生没年  | 
      
       1848年〜1909年  | 
      
       陸軍大学校  | 
      
       聴講生  | 
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       最終階級  | 
      
       日露戦争時  | 
      
       第四師団長  | 
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 小川は実戦をなす明治25年の宇都宮大演習では、小川は北軍に属して部隊を指揮した。小川の用兵を見た山県有朋は「他の者は演習をなすのに、小川は実戦をなす」と評した。小川の血縁筋力も人並み外れていた小川は、強弓の使い手であった源為朝の末裔と称していた。また、小川の娘は後の元帥 杉山元に嫁いでおり、昭和20年に夫と共に自決している。 | 
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       出身地  | 
      
       陸軍士官学校  | 
      
       −  | 
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       生没年  | 
      
       1847年〜1930年  | 
      
       陸軍大学校  | 
      
       −  | 
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       最終階級  | 
      
       日露戦争時  | 
      
       第二軍司令官  | 
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 詳細情報奥のエピソードは個別ページ「奥保鞏」に掲載。 | 
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       出身地  | 
      
       陸軍士官学校  | 
      |||
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       生没年  | 
      
       1864年〜1935年  | 
      
       陸軍大学校  | 
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       最終階級  | 
      
       日露戦争時  | 
      
       第二軍参謀長  | 
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 開戦前に溺れかける第二軍司令部が遼東半島に上陸した日は風浪が激しかった。司令部一行は小型蒸気船で移動し、岸から約1kmのところでボートに乗り換えた。その際、司令官の奥は巧くボートに飛び乗ったが、落合は飛び乗る瞬間にボートが波で離れたため海中に転落してしまった。幸い怪我も無く部下らに引き上げられた落合は、奥から「おめでとう」と声をかけられ「落合いました」と笑顔で洒落を言ったという。 | 
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