「坂の上の雲」登場人物
五十音順一覧表 【お】

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大庭二郎【おおばじろう】


出身地

長州藩

陸軍士官学校

旧8期

生没年

1864年〜1935年

陸軍大学校

8期

最終階級

陸軍大将

日露戦争時

第三軍参謀副長


 陸士、陸大を卒業後、参謀本部へ出仕。日清戦争中は兵站総監部副官、参謀本部第1局員を務め、戦後ドイツへ留学する。帰国後は、陸大教官、山縣有朋副官などを歴任。明治36年には秋山好古と共にロシア領視察へ派遣された。
 翌年の日露戦争では第三軍参謀副長として出征し、旅順攻略戦の作戦立案に携わった。旅順陥落後は責任を取らされる形で大本営付き、後備第二師団参謀長となる。
 戦後は戸山学校長、歩兵学校長、朝鮮軍司令官、教育総監などの要職を歴任。ロシア軍観戦武官として第一次世界大戦に従軍したほか、第3師団長としてシベリアへも出兵している。



大原観山【おおはらかんざん】

 1818年〜1875年。名は有恒。正岡子規・律の外祖父で、正岡八重・加藤恒忠の父。藩の御船手 加藤重孝の三男で、大原家に嫁いだ姉の養子となった。松山で漢学を学んだ後に江戸に上り、昌平校では舎長に補される。帰郷後は藩校明教館の教授を務めたほか、藩主松平定昭の側近として佐幕藩の侵攻で混乱する藩内の調整に尽力した。孫である子規の才を愛し、小学校にあがるまでは自ら漢学の素読を教えていた。

久松定謨を藩主に推す

 松平家は何度か他家から養子を迎えていたため、家康以来の血統は途絶えていた。明治五年、藩主定昭が亡くなると大原は分家である静岡県士族松平勝善の三男e三郎(後の久松定謨)を養子として迎えるべきだと建言したが、このことで重臣から疎まれ免職のうえ蟄居となってしまった。しかし、大原は同調者を集めて再度建言し、定謨を養子として迎え入れることを実現させた。


大山巌【おおやまいわお】


出身地

薩摩藩

陸軍士官学校

生没年

1842年〜1916年

陸軍大学校

最終階級

元帥陸軍大将

日露戦争時

満州軍総司令官


 西郷隆盛、従道の従兄弟。薩英戦争後に江川太郎左衛門のもとで砲術を学び、砲術長として戊辰戦争で活躍。この頃、「弥助砲」と呼ばれる大砲も開発した。明治10年の西南戦争では別動第一旅団司令長官(後に第二旅団長を兼任)として従軍したが、西郷と戦ったことを気にして終生鹿児島に帰郷することはなかったという。
 その後は欧州留学、兵制視察を経て陸軍卿、参謀本部長、陸軍大臣など要職を歴任。陸軍中枢において軍政面で重要な役割を担った。また、大警視や参議、内大臣を務めたほか、国歌「君が代」の制定にも携わっている。
 明治27年の日清戦争では第二軍司令官として旅順攻撃を担当。また、明治37年の日露戦争では満州軍総司令官として指揮を執り、日本陸軍の勝利に貢献した。日露戦争後も政治的野心はなく、参謀総長と内務大臣を数年務めただけであった。

詳細情報

 大山のエピソードは個別ページ「大山巌」に掲載。


小笠原唯八【おがさわらただはち】

 1829年〜1868年。土佐藩士。鳥羽伏見の戦い後、藩兵を率いて松山藩征討を指揮し、これを恭順させる。その後も政府軍諸道軍監として上野戦争、東北戦争で戦功を立てたが、会津若松城攻撃の陣頭指揮中に敵弾を受けて戦死した。
 「竜馬がゆく」では、三巻で山地忠七(元治)らと共に長州の周布政之助を切りに行こうとするシーンで登場。七巻では会津で戦った時の様子が描かれている。



小笠原長生【おがさわらながなり】


出身地

唐津藩

海軍兵学校

14期

生没年

1867年〜1958年

海軍大学校

最終階級

海軍中将

日露戦争時

軍令部参謀


 唐津藩主 小笠原長行の長男。明治6年に家督を相続。学習院、攻玉社を経て明治17年に海軍兵学校に入学。卒業後、日進、天城、八重山などに乗艦し、明治27年には高千穂の分隊長として日清戦争に従軍した。戦後は軍令部に出仕し、日清戦史編纂委員を務めた。
 明治35年から浅間分隊長、千代田副長など海上勤務を経て、明治37年に軍令部参謀として日露戦争を迎える。日露戦争後も戦史編纂委員を務めている
 その後も軍令部参謀や艦長などを歴任し、大正8年に中将で退役。昭和20年まで宮中顧問官を務めた。退役後は東郷平八郎の伝記など多数の著書を執筆している。



小川又次【おがわまたじ】


出身地

小倉藩

陸軍士官学校

兵学寮

生没年

1848年〜1909年

陸軍大学校

聴講生

最終階級

陸軍大将

日露戦争時

第四師団長


 江川太郎左衛門の塾で兵術を学び、長州征伐では藩の一隊長として初陣する。明治維新後は兵学寮に入り、台湾征討、神風連の乱、西南戦争に従軍した。
 反乱鎮圧後は熊本鎮台、大阪鎮台や、参謀本部管西局に勤務。陸軍大学が創設されると聴講生として講義に出席した。陸大教官のメッケル少佐から称賛されるなどその作戦能力は高く評価され、陸軍内で「今謙信」と評されていた。
 明治27年の日清戦争では第一軍参謀長として出征。また、明治37年の日露戦争では第四師団長として出征し、金州・南山の戦いでは軍司令部に攻撃続行を進言し敵陣攻略に貢献した。しかし、遼陽会戦中に負傷し帰国。翌38年1月に陸軍大将に昇進するが、その後休職となり、明治40年に予備役へ編入となった。


小川は実戦をなす

 明治25年の宇都宮大演習では、小川は北軍に属して部隊を指揮した。小川の用兵を見た山県有朋は「他の者は演習をなすのに、小川は実戦をなす」と評した。


小川の血縁

 筋力も人並み外れていた小川は、強弓の使い手であった源為朝の末裔と称していた。また、小川の娘は後の元帥 杉山元に嫁いでおり、昭和20年に夫と共に自決している。




奥保鞏【おくやすかた】


出身地

小倉藩

陸軍士官学校

生没年

1847年〜1930年

陸軍大学校

最終階級

元帥陸軍大将

日露戦争時

第二軍司令官


 佐幕派である主家に従って長州征伐で初陣。維新後は陸軍に入り、佐賀の乱、台湾出兵、神風連の乱に従軍した。明治10年の西南戦争では熊本籠城戦に参加し、薩摩軍の包囲を突破して政府軍と連絡をとるという活躍で勇名を馳せる。その後、連隊長、旅団長、東宮武官長などを歴任し、明治27年には第五師団長として日清戦争に出征した。
 明治37年、日露戦争が勃発すると薩長出身者が軍中枢の要職を占める中に在って、「奥だけは外せない」と佐幕藩出身でありながらもその指揮能力を買われ、第二軍司令官に抜擢される。初戦の南山攻略に於いて苦戦の中で攻撃続行を決断するなど、当時の軍司令官の中で参謀の補佐なく作戦遂行できるのは奥だけと言われるほどであった。
 戦後、急逝した児玉源太郎の後任として陸軍参謀総長を務め、明治44年には薩長出身者以外では初めての元帥となっている。

詳細情報

 奥のエピソードは個別ページ「奥保鞏」に掲載。


落合豊三郎【おちあいとよさぶろう】


出身地

松江藩

陸軍士官学校

旧3期

生没年

1864年〜1935年

陸軍大学校

2期

最終階級

陸軍中将

日露戦争時

第二軍参謀長


 陸軍幼年学校を経て旧3期生として陸軍士官学校工兵科を卒業。陸軍大学校卒業後は参謀本部勤務、陸大教官、ドイツ公使館付などを歴任し、日清戦争では第二軍参謀として出征した。
 日露戦争では第二軍参謀長に就任するが、遼陽会戦における対応が消極的と見なされ、第一線から韓国駐剳軍参謀長への転出となった。その後は満州軍参謀、満州軍総兵站監部参謀長を務め、戦後は関東総督府陸軍参謀長、交通兵旅団長、工兵監などを歴任したが、大正3年の東京湾要塞司令官を最後に中将で予備役に編入された。

開戦前に溺れかける

 第二軍司令部が遼東半島に上陸した日は風浪が激しかった。司令部一行は小型蒸気船で移動し、岸から約1kmのところでボートに乗り換えた。その際、司令官の奥は巧くボートに飛び乗ったが、落合は飛び乗る瞬間にボートが波で離れたため海中に転落してしまった。幸い怪我も無く部下らに引き上げられた落合は、奥から「おめでとう」と声をかけられ「落合いました」と笑顔で洒落を言ったという。