「坂の上の雲」登場人物
五十音順一覧表 【つ】

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佃一予【つくだかずまさ】

 1864年〜1925年。松山藩出身。山路一善は弟。明治23年に東京帝国大学政治学科を卒業し内務省へ入省。広島県書記官、大阪税関長、松方正義首相の秘書官、陸軍省参事官などを務め、明治35年には袁世凱の財政顧問となる。その後、日本興業銀行副総裁、南満洲鉄道理事、報徳銀行頭取を務めた。

子規と佃(1)

 反正岡派の急先鋒として登場する佃一予であるが、寄宿舎時代は子規とは仲が良かったようだ。子規の随筆『筆まかせ』にも佃は何度か登場している。
 『洒落之番附』では「此頃は常盤会寄宿舎に口あいの洒落流行し来りて、左翼の二階は皆其仲間とぞなりけり」とあり、子規が西之方小結、佃一予が東之方前頭として紹介されている。また『ベースボール勝負附』では、寄宿舎仲間と野球をしようとしたところ小雨が降り出したので皆で延期を検討したが、佃の主張で気を取り直して上野公園へ行って野球をした事が書かれている。


子規と佃(2)

 太田柴州が後に柳原に語ったところによると、明治25年の夏に太田と子規は松山から帰京する途中で広島に立ち寄り、そこで県の書記官をしていた佃から料亭に招待されたという。佃は芸妓を呼んで唄うやら踊るやらで上機嫌ではしゃいでいたのだが、何を思ったか急に子規を指差し、芸妓に向って「このお方は書が上手だ、何か書いてもらえ」と言い出した。佃が管を巻いている間に首を傾けて考えていた子規は、芸妓が差し出した三味線に『猫が三味ひきや鯰がうたふなかに無言のほととぎす』と都都逸めいた事を書いたという。太田は「鯰は佃でほととぎすは自身のことであろうが、芸妓にその意味が判ろうはずはないけれど、いずれも感心したような表情をしていたのは滑稽であった」と回顧している。
 この明治25年というのは「坂の上の雲」第二巻の「日清戦争」の章、ちょうど佃派が子規を攻撃していたとされる頃の話である。


子規と佃(3)

 大正期に刊行されたアルス版「子規全集」の販促用内容見本では、「子規全集賛助員」として佃も名を連ねている。この頃には佃も子規の文学的な功績を認めるようになっていたのかもしれない。(参照:戦前の販促パンフ




土屋久明【つちやきゅうめい】


 松山藩の儒学者で、明教館の助教授を務めていた人物。大原観山の依頼で子規に漢学を教えていた。 解らない字が出てきた場合でも誤魔化すようなことはせず、子規らを待たせて字引で一々引いてから教える堅実な人物であったという。家禄奉還金を使いきった後、食を絶ち餓死した。
 子規と共に学んだ三並良は後に「土屋三平先生」と証言しており、柳原極堂は著書の中で「久明」が字、「三平」が通称ではないかと推測しているが、子規追悼の座談会席上で近藤我観が「久明と三平は別人」と証言したことも記している。



津野田是重【つのだこれしげ】


出身地

熊本県

陸軍士官学校

6期

生没年

1873年〜1930年

陸軍大学校

14期

最終階級

陸軍少将

日露戦争時

第三軍参謀


 熊本の名門校「済々黌」を卒業後、陸軍士官学校へ入学。陸軍大学校卒業後に参謀本部出仕を経てフランスへ留学するが、明治37年に帰国命令を受け、第三軍参謀として出征した。旅順要塞陥落後は軍使としてステッセルとの交渉などを行った。その後、第三軍幕僚の大半が左遷される中で津野田だけは留任し、奉天会戦まで乃木の参謀を務めた。出征中は様々な失敗から参謀長らに叱られることも多かったが、英国観戦武官のハミルトン中将から「日本人には珍しく明朗な青年将校」と評されている。
 戦後は再びフランスへ留学し、帰国後は陸大教官、近衛歩兵第3連隊大隊長、奈良連隊区司令官、歩兵第11連隊長などを務めたが、その性格が災いし少将で予備役へ編入された。その後、衆議院議員に立候補して当選。政友会に属し、枢密院顧問も務めた。
 先祖は戦国武将 明智光秀。長男 忠重は作家。三男 知重は大本営参謀となり、太平洋戦争中に東條英機暗殺計画に関わっている。

詳細情報

 津野田のエピソードは個別ページ「津野田是重」に掲載。