「坂の上の雲」登場人物
五十音順一覧表 【た】

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高橋是清【たかはしこれきよ】


高橋是清

出身地

仙台藩

出身校

ヘボン塾

生没年

1854年〜1936年 

日露戦争時

日本銀行副総裁 


 幕府御用絵師の子として江戸で生まれ、仙台藩足軽の養子となる。ヘボン塾で学んだ後、藩命でアメリカへ留学するが、現地で騙されて奴隷生活を強いられた。帰国後は共立学校教師、共立学校初代校長、初代特許局長を務める。明治25年、日本銀行に入行。明治32年には日本銀行副総裁となり、日露戦争の外債募集に尽力した。
 戦後は横浜正金銀行頭取などを経て明治44年に日本銀行総裁に就任。その後政界に転じ、山本、原、犬養内閣などの大蔵大臣を務めたほか、立憲政友会総裁として第二次護憲運動にも参加した。昭和2年の金融恐慌では、田中内閣の蔵相として「高橋財政」と呼ばれる積極的な財政政策で鎮静化に成功する。しかし、軍事予算の縮小をめぐって軍部と対立したため、昭和11年の二・二六事件で青年将校に暗殺された。

詳細情報

 高橋のエピソードは個別ページ「高橋是清」に掲載。


高浜虚子【たかはまきょし】


高浜虚子

出身地

松山藩

出身校

第二高等学校

生没年

1874年〜1959年

所属

ホトトギス派


 本名は清。池内信夫の四男として生まれ、後に祖母の実家である高浜家を継ぐ。伊予尋常中学時代に同級生の河東碧梧桐から紹介された正岡子規に師事し俳句を始める。その後、碧梧桐と共に第三高等学校、第二高等学校へ進学するが、文学の道を志して中退し、上京して子規の庇護を受けることとなった。明治30年に柳原極堂が創刊した俳誌「ほとゝぎす」に参加し、翌年からこれを東京で引き継いだ「ホトトギス」を主宰し、虚子は碧梧桐と共に子規高弟の双璧と目されるようになった。
 子規没後は俳句を辞めて小説の創作を行っていたが、碧梧桐が「新傾向俳句」を興すと俳壇に復帰し、「守旧派」として対抗。俳句を花鳥諷詠の詩とする「客観写生」を唱えた。その後も大正・昭和の俳壇に君臨し続け、「ホトトギス派」から多くの俳人を輩出した。生涯で二十万を超える句を残し、昭和29年には文化勲章を受章している。

詳細情報

 虚子のエピソードは個別ページ「高浜虚子」に掲載予定(作成準備中)。


財部彪【たからべたけし】


財部彪

出身地

薩摩藩

海軍兵学校

15期

生没年

1867年〜1949年

海軍大学校

最終階級

海軍大将

日露戦争時

軍令部参謀


 攻玉社を経て海軍兵学校へ入学。さらに海軍大学校に進み、巡洋艦「高雄」分隊長、駆逐艦「雷」艦長、常備艦隊参謀などを務めた。日露戦争中は軍令部参謀として内地勤務となっている。戦後は山本権兵衛の娘婿という立場から順調に出世し、海軍次官や艦隊司令官、鎮守府司令官などを歴任。加藤友三郎内閣、山本権兵衛内閣など5内閣で海軍大臣に就任するが、昭和5年に全権として批准したロンドン軍縮条約が統帥権干犯問題に発展し失脚した。


真之との確執

 「薩の海軍、長の陸軍」(明治四十四年 鵜崎鷺城)では、財部は舅の山本権兵衛と共に酷評されている。財部と秋山真之との間に確執があったという記述もあり、例えば真之が日露戦争の講演を行うと財部一派は「秋山一人の力で戦争をしたように吹聴するのは他人の功績を奪うものであり、東郷や上村も大いに憤慨している」と非難したという。また、真之を予備艦艦長の閑職から第一艦隊参謀長へ栄転させたのは軍政方面から遠ざけるための算段である、とも書かれている。


評判と実像

 山本権兵衛の女婿で進級が早かったうえに、愛想が無く誤解されることの多かった財部は海軍部内でもあまり評判は良くなかったという。しかし、海軍大臣副官として財部彪、岡田啓介、大角岑生、永野修身の四大臣に仕えた田結穣中将(太平洋戦争中は支那方面艦隊参謀長)は、「本人は確乎不抜の国家観念に立脚し自己の信念に邁進した人で四大臣中最も立派であったと思う」と評している。



立見尚文【たつみなおふみ】


立見尚文

出身地

桑名藩

陸軍士官学校

生没年

1845年〜1923年

陸軍大学校

最終階級

陸軍大将

日露戦争時

第八師団長


幼少期は藩校立教館、江戸の昌平黌で学んだほか、新陰流の剣術、甲州流軍学にも入門。藩主が京都所司代に就任すると京都勤番となり、長州征伐では大目付の随員として従軍している。戊辰戦争が始まると雷神隊を組織し、土方歳三らと宇都宮城を落としたほか、長岡では山県有朋率いる奇兵隊を打ち破った。
 維新後は一時謹慎となるが、赦免後は安濃津県職員を経て司法省へ出仕し、各地の裁判所で勤務した。西南戦争が勃発すると軍籍に転じ、新撰旅団参謀副長として従軍その後は近衛歩兵第三連隊長などを務め、日清戦争では第十旅団長として平壌攻撃で勇名を馳せる。その後、陸大校長、台湾総督府軍務局長、台湾総督府参謀長などを歴任し、明治31年に新設の第八師団長に就任。日露戦争では第八師団を率いて黒溝台会戦に参戦し、ロシア軍の猛攻を食い止める活躍を見せた。戦後に数少ない佐幕派出身の陸軍大将となったが、まもなく死去。

詳細情報

 立見のエピソードは個別ページ「立見尚文」に掲載。



田中国重【たなかくにしげ】


田中 国重

出身地

鹿児島県

陸軍士官学校

4期

生没年

1872年〜1941年

陸軍大学校

14期

最終階級

陸軍大将

日露戦争時

満州軍参謀


 鹿児島中学を経て陸軍士官学校へ入学。卒業の翌年には近衛騎兵大隊付で日清戦争に出征している。明治33年に陸軍大学校を優等で卒業し、騎兵第10連隊中隊長、参謀本部員などを 務める。明治37年に日露戦争が勃発すると満州軍参謀として従軍し、児玉源太郎の旅順攻撃指導にも同行した。戦後は騎兵第16連隊長、侍従武官、騎兵第3旅団長、第15師団長、近 衛師団長、台湾軍司令官などを歴任。パリ講和会議やワシントン軍縮会議の随員も務めた。昭和3年に陸軍大将に昇進し軍事参議官となるが、翌年予備役に編入された。




田村怡与造【たむらいよぞう】


田村怡与造

出身地

山梨県

陸軍士官学校

旧2期

生没年

1854年〜1903年

陸軍大学校

最終階級

陸軍中将


 小学校教師を経て陸軍士官学校へ入学。その際に父親に義絶されたため、復籍までは妻の実家に養子入りして早川性を名乗っている。明治16年にドイツへ留学し、帰国後は参謀本部第一局員として野外要務令や戦時勤務令の起草、戦時編成の立案を担当した。明治27年の日清戦争では第一軍参謀副長、歩兵第9連隊長として出征している。戦後はドイツ公使館附武官、参謀本部第一部長、参謀本部総務部長などを歴任。明治35年には参謀次長に就任し、対露作戦の策定を始めた。用兵が巧みで「今信玄」と呼ばれた田村への期待は大きかったが、過労のため日露開戦前の明治36年に急逝した。

山県、小川と激論

 日清戦争では軍司令官の山県有朋、参謀長の小川又次と作戦計画で意見が合わず、大激論の末に無断で帰国。大本営で田村の意見を聞いた川上操六は山県と交渉し、田村が処罰されな いように根回しをしたという。


初めての大演習指導

 当初の陸軍大演習は陸大教官であったメッケルが計画立案を担当していた。しかし、明治23年の陸軍大演習は田村が「日本陸軍の名誉に拘る。私がやってみせる」と言って演習指導を見事に遂行した。これ以降、陸軍の演習は外 国将校に頼ることなく日本人だけで実施するようになっていった。



田村守衛【たむらもりえ】


田村守衛

出身地

山梨県

陸軍士官学校

5期

生没年

1871年〜1923年

陸軍大学校

15期

最終階級

陸軍中将

日露戦争時

満州軍参謀


 田村怡与造の弟。明治27年に陸軍士官学校を卒業し、次いで明治34年に陸軍大学校を首席で卒業。参謀本部勤務を経て明治37年の日露戦争では満州軍参謀として出征した。戦後は陸大幹事、騎兵第1旅団長、陸軍騎兵学校長などを歴任。大正11年に陸大校長となるが、在職中の翌12年に急逝。没後に陸軍中将に昇進となった。