「坂の上の雲」エピソード集を作る

編集長から最初に受けた依頼が、「参戦二十提督 日露大海戦を語る」、「参戦二十将星 日露大戦を語る」 、「名将回顧 日露大戦秘史 陸戦編」、「名将回顧 日露大戦秘史 海戦編」の中から興味深いエピソードを選び抜き、それに解説を付けて「坂の上の雲エピソード集」を作ってほしいというものでした。


”面白い”エピソードとは?

サイトのネタ探し用に以前から読み込んでいたこともあって、興味のある部分には付箋紙が貼ってあり、また入力済みのエピソードも多かったので、入稿作業そのものはさほど時間はかかりませんでした。
しかし、選別段階でに気になったのが「一般読者から見て”面白い”エピソードってどれだろう?」ということです。文藝春秋の読者層は幅広く、全員が「坂の上の雲」を読み込んでいる歴史好きとは限らない。そうした視点から読み返してみると、前提知識がなければ”面白さ”が分からないエピソードもいくつかあり、原稿提出前の段階でボツになったものもあります。
当初はサイトのエピソード集を作るのと同じ感覚で作業をしていましたが、「無償でマニア向けに情報提供するサイト」と違って「一般読者に買ってもらう書籍原稿」の責任の重さに気づき、ここに来て大きなプレッシャーを感じました。最終的には実際に掲載されたエピソードと、後述する未掲載エピソードを載せた原稿に纏め上げ、ページ数に応じて編集部で取捨選択してもらうということになりました。


タイトルの書き忘れ

今回のエピソード集は、企画記事として6~7ページ続けて載せる一括掲載パターンと、コラムとする分割掲載パターンと、掲載形態をどちらにするかが当初は決まっていませんでした。とりあえず、1ページ分の資料解説も入れた一括掲載形式の原稿を送ったのですが、最終的にどうなるかわからなかったこともあり、タイトル未定のままで出しました。
その後、校正段階で送られてきたゲラ刷りを見たところ『司馬さんが書かなかった 将軍・提督とっておきエピソード』と吹き出し付きのタイトルがしっかりと入っていました。つまり、あのタイトルは編集部で付けて頂いたものなのです。とても良いタイトルなので、「自分で考えずに忘れたままで、かえってよかったのかも」と思っています。


同じ文庫本でもページ数が違う?!

解説文では、小説本編の関連個所を参照しやすいように「『坂の上の雲』○巻××頁」と文庫本の該当ページを記入しています。この作業は我が家にある文庫本(10年前に購入)で行いました。
原稿の最終チェックで文藝春秋本社に行った際、編集室の本棚に文庫本の新装版があるのを見て、何気なく「新装版と旧版って、ページ数は一緒ですよね」と言いながら手に取ったところ、鈴木さんが「いや、少し違っていますよ。今回載せる名セリフ集でもどっちを基準にするかで困りました」と言われ、慌てて最終チェックをしました。幸い、私が記述した箇所は旧版、新版ともにページ数は同じでしたが、新版では読みやすいように空行を挿入した箇所がいくつかあるため、数行~数ページほどずれている箇所もあるようです。



未掲載エピソード

ここでは、雑誌未掲載となったエピソードを紹介していきます。本文では漢字・仮名づかいを読みやすい表記に書き改め、適宜読点を付しています。また、引用が長くなる箇所については一部省略し、発言の趣旨に即して前後の発言を繋いでいます。
発言している座談会出席者は、陸軍は国司伍七(満州軍参謀)、藤井茂太(第一軍参謀長)、尾野実信(満州軍参謀)、井上幾太郎(第三軍参謀)、田中国重(満州軍参謀)、堀内文次郎(大本営高級副官)、大島健一(兵站総監部参謀長)、奈良武次(独立重砲旅団司令部員)、関屋貞三郎(台湾総督秘書官)。海軍は森山慶三郎(瓜生戦隊参謀)、安保清種(三笠砲術長)、佐藤鉄太郎(第二艦隊参謀)です。


黒鳩で一句

国司
総司令部が湯崗子(とうこうし)に着いた時のことであります。児玉大将が空気銃を持って屋根にとまっていた鳩を打たれた。そうすると松川少将がそれを見て、
『黒鳩(くろぱと)がこだまに会うて投(とう)降(こう)し(湯崗子(とうこうし))』
といわれた―(笑声)
それで私はこれはもう遼陽戦は必ず勝てるという観念を強め、非常に愉快でありました。

(日露大戦を語る)


大山の冗談

藤井
日露戦争が始まりましてその出発前、私が大山閣下に、不日閣下もご出征のことと思いますから、お出でになるまでにコザックのいい馬をとっておいて御乗馬に供そうと思います、と申し上げたら、大山閣下は何と言われるかと思うと ― 大山さんはご機嫌のいいときには人に何々さんと「さん」をつけられました。
「藤井さん、人の馬を取るよりも自分の足を取られんようにしたほうがましぢゃろ」
といわれました(笑声)。これが私が閣下から聞いた冗談の一つ。
それから大山閣下が各軍司令部をお廻りになったことがあります。その時第一軍司令部にお出でになるということですから、何か大山閣下に二十七年旅順で鶏肉の御馳走になった御返礼を致したいと思っておりましたので、伝騎に騎銃を持たせて出かけたところうまく一羽射落とすことが出来た。それは大きな雁で不思議にも騎銃で撃てたのです。雁というものはなかなか猟銃でも夜か朝か暗いうちでなければとれないものだそうです。それがうまく落ちましたので、喜んで早速これを料理して大山閣下の食卓にのせたところ閣下も非常に御満足になられました。ところが近所におるのが羨ましがって、
「これは藤井が金を出して買って来たのだ、そうに違いない。騎銃の一弾で難なく雁が撃てるものか」
等と非常に悪口をいわれたものです。そしていろいろ話のうちに大山閣下が何といわれるかと思っておりましたら一番しまいに、
「藤井さん、多分この雁は病雁であったんだろう」
とおっしゃいました。―(笑声)

(日露大戦を語る)


尾野
私と川上将軍の令息の川上素一君と二人がお供して散歩し、大山さんが拳銃を持ち出して畑中で試射をしたことがあります。大山さんは拳銃を持たれていきなり川上さんの胸倉をとって「さあ金を出すか」といって、強盗のまねをやってふざけられたことがあります。

(日露大戦秘史 陸戦編)


乃木も冗談好き

井上
私は動員まで乃木さんという方を知らなかった。ただ非常にやかましい人で、僅かな事でも叱られるというように思って居りました。動員後行ってみると全く違っている、例えば叱るというようなことはない、時には大変冗談を言うことが好きでありました。始終冗談を言って若い将校をからかって居られたというような風で、私は大変安心をしました。しかしながら自分でなさることは非常に謹厳でした。

(日露大戦秘史 陸戦編)


大山、児玉の名コンビ

田中
もし総司令官が山県元帥で総参謀長が児玉さんであったらどうでしょう。
堀内
それは調子が悪かろうナ。
大島
そうでした、あれは大山さんであったから児玉さんが全力をつくしてやられたのである。これが山県元帥だと、有朋爺、源太郎爺とかいってお互いに電報を交換していた位で、前から山県元帥が総司令官では児玉さんは総参謀長をやられなかったでしょう。
堀内
平常の関係からでも…
田中
それで私の多年疑問としていたことが氷解いたしました。
大島
山県元帥はこれはこういうところに用いるがいい、これはこういうところへ用いてはいかぬということを考えていた。それだからあの配合というものは大山さんには至極適当である。山県さんでは児玉さんも驥足はのばされぬし、山県さんも児玉さんに補佐されるということはいかぬようであった。
田中
私は考えるに、この日露戦争大勝利の原因は、大元帥陛下の御稜威によることは申すまでもありませんが、この総司令官と総参謀長の配合よろしきを得たという点にあると思います。

(日露大戦を語る)


第三軍に同情した真之

森山
第三軍の第二回総攻撃の直後だと私は思いますが、当時対州海峡の哨戒の任にあった私に、三笠の秋山参謀から第三軍に対する切々の同情を寄せられたことがあるのであります。即ち旅順攻囲軍の進捗予期の如くならず、定めし遠方にいる君等の方面では、さぞ歯痒く思っているかも知れないが、難攻不落の旅順とうたわれているだけあって実に容易な業でない。今まで数次の肉弾的総攻撃が強行されたけれども、ただ惨澹目もあてられぬ跡をのこすのみで、何の効果もない。山も谷もわが忠勇な陸の戦友の屍でおおわれている。万策つきていよいよ正攻法というもぐら戦術に移ることになって、一尺二尺と死力をつくして、坑道を掘り進めて、砲台下に達して地面下からこれを爆破しようとしておるのである。従ってまだまだ永引くと覚悟しなければならないが、第三軍の悪戦苦闘、不屈不撓の実情を見ては、何人も涙なきを得んのである。それであるから東郷長官も進んであらん限りの援助をしておられるのであるから、君等も暫く我慢して、ウラジオ方面の敵に対して万全の努力を払って貰いたい。
 とこう一言一句肺腑から迸った秋山参謀の名句でありますから、強い感激にわれわれは打たれたのであります。これだけ申し上げておきます。

(日露大海戦を語る)


一挙直ニ屠レ旅順城

堀内
私も元帥の胸中を察し思い切った結句の、「一挙直に屠る」の「る」を「れ」と書きました。命令詞に致しました。何と無残至極ではありませんか。(中略)私もこの電文を書きます時には手が震えて涙は止まりませんでした。今日から考えてもゾッとします。
 私はこの晩は一睡もしません。電報が来る毎に、乃木将軍戦死の報ではないかと、胸に轟かせました。

(日露大戦を語る)


砲兵将校の言い分

奈良
児玉閣下が十一月三十日ごろ来られ、爾霊山の攻撃の時に大分意気込んでおられた。当時私どもは傍らで拝見していましたが、第七師団は大分困難な模様でした。そうすると第一師団の方では、どうやら爾霊山の高地から旅順港内が見えるということをいうているようである。ところが第七師団参謀の石黒千久之助という人―或いは違っているかも知れないが―が碾盤溝の方に出張していたのだが、それからも電話があって、第一師団では港内が見えるということをいうけれども、今君の方から砲撃されるというと、敵は直ちに報復的に爾霊山を攻撃して来るので、第七師団としては持ち切れない。どうか暫く待ってくれと、こういうのであった。それだからこれはどうしたらいいか、見えれば射つのは困難ではない。けれども第七師団がイヤというのを、これをやるというのも気の毒で、どっちともいわずにいた。そうするとそれを児玉さんが聞きつけて僕の前に来た。「さァ来たな」と思っていると、
「第一師団の報告によると旅順港内は見えるということである。現在占領しているところから見えるというぢゃないか」
といわれた。どうも嘘をいうのも苦しかったけれども、私の方への報告には見えるということになっておりません。見えれば射ちますというと、
「それではたしかめろ」
というので、仕方がないから第一師団に行った。その実僕も知っていたのです。ところが第一師団の方で見えるというので、第七師団も観念して見えましたというので、僕は総参謀長のところへ行って、
「見えるそうです、今まで私の方には報告して来なかったが、見えるそうです」
と申し上げ、それから早速射撃に着手することになった。君らの方では重砲兵が躊躇したと判断したのは無理がないけれども、実は第七師団から非常に哀願されたためであって躊躇したのではない。
田中
当時は駄目だ駄目だと総参謀長はいっていた。
奈良
そうです。ひどい勢いでした。また外にも私自身が呼ばれてひどく児玉さんにいわれたことがあったけれども、それはちょっとここに申し上げません。とにかくエライ勢いだった。

(日露大戦を語る)


講和を進めるリスク

関屋
講和の顛末については当時私どもも承っておりまして、やはり児玉さんの偉いことを痛感したのであります。一体、戦争もされるし講和もされるという人はなかなかないもので、どうも講和などする人は評判がよくないのであります。当時児玉さんの留守宅に石ころを投げたものもあり、また児玉さん自身刺客につけ狙われたと承っております。かかる空気の中にあって主戦論者たりし児玉さんが講和を主張されたのは実に偉いと思います。

(日露大戦を語る)


航空戦を予言

田中
将来の戦争というものは殆どこの空中戦で勝敗の決がつくような時代が遠からぬ内に来ると思う。旅順のあの二〇三高地を占領するためのように肉弾を使用する必要はない。その当時今日ほどの航空機が発達しておったら、爆弾をもってすれば一日にして旅順は落ち、またあの軍艦など沈没している。
将来の戦争には東京、大阪、京都、名古屋というような日本の巨大な都市というものが必ず爆弾で襲われる。今日のような航空機に無関心な国民は、将来残酷な懲罰を受けるということは分かりきっている。

(日露大戦を語る)


敗敵へのいたわり

佐藤
あのリューリックの捕虜を各艦に収容しました時に上村長官が直ぐ私に仰いました。
「兵員は今ロシア軍を甚だ憎んで居る。もし捕虜をヒドい目に会わせては困る。何とか工夫なかろうかのう」
という事でしたので、私は、
「いやそういう事を御命令なさったらどうです」
と申し上げると長官は
「それぢゃそうしよう」
という事になりましたが、私も心配して居ました。ところが日本の兵隊の偉い事は実に私も感心したのです。負傷した捕虜を収容して居る部屋、魚雷発射管のある室に負傷兵を容れてある。そこへ行って見ると一杯の人だかりなんです。
「これはいかん、何かやったかな」
と思いまして、
「待て待て」
と叫びながら飛んで行きましたところ、
「佐藤参謀がお出でだ、あけろあけろ」
といって通してくれました。人がいっぱいなので何事かと思って中を見るとロシアの負傷兵が大分ひどい傷で寝て居る。それを日本の水兵がグルッと取巻きまして、夏の暑い時分、八月の十四日ですから暑い。暑いので敵の負傷兵を団扇で煽いでやって居りました。私は実に感服しました。そして、
「よくいたわってやれよ」
というと、
「こいつ等は憎い奴ですけれども、こうなっては可哀想です」
そういって居ました。これが実に日本兵の偉い所と感じもし、また初めて安心しまして長官室に駆込み、この事を申し上げますと長官も非常に喜ばれ、
「ああ、それで安心だ」
と仰った。
そういう工合に強く見えるがまた非常に慈愛の深い方でして向うの相手の身になって考えられる。

(日露大戦秘史 海戦篇)


「水漏るぞ」の末路

安保 なおネボガトフ艦隊降伏の際に狡しくも脱兎の如く非常な快速力を以て逸走した巡洋艦イズムルード「水漏るぞ」は、我艦隊の急追撃に余程うろたえたものか一目散にウラジオを通り越して、それよりも二百海里も北にあるセントウラジミル湾に達し夜間その入口を間違えて港口の岩礁に乗あげ、水が漏って沈んで仕舞ったのは、如何にも不思議の因縁と見られるのである。

(日露大海戦を語る)